“Tourism×写真” 「旅と写真について」
写真というツールの立ち位置も、撮るという行為そのものの意味も変わりつつある現代。世界を旅し、撮影を続けてきた写真家・竹沢うるまさんに、旅における写真と、人と人との境界、その根底にある敬意と心について寄稿いただきました。旅の本質へと、静かに思いを巡らせます。
旅とは、境界を超えて、その先にある非日常に身を置くことである。
旅先で触れる世界は刺激に満ち、心が揺り動かされる瞬間の連続である。その土地で暮らす人々にとっては単なる日常の光景であっても、旅をする人にとっては、そこで見聞したことは記録すべきものであり、持ち帰って誰かと共有したい特別な感覚に満ちている。
カメラ機能付きのスマートフォンがここまで普及した現在、気軽に写真を撮ることができるため、旅に出て写真を1枚も撮らずに帰る人はほとんどいないのではないかと思う。そういった意味で、現代において旅と写真は切っても切れない関係性になっている。そこで、本稿では旅と写真というテーマに基づいて、話をしていきたいと思う。
はじめに簡単に私のバックグラウンドを話しておきたいと思う。私は写真家である。主なテーマは大地。私が言うところの大地には、そこで暮らす人間も含まれる。自然と密接に関係性を持ちながら、そこから生まれた伝統や文化を大切に生きている人間は、自然の一部であり、大地と呼ぶことができるのではないだろうかという考えに基づいている。
これまで大地を探して20年近く旅を繰り返し、気がつけば訪れた国と地域は150近くになった。行く先々で多様な価値観や伝統文化を持つ人々に出会い、撮影をしてきた。旅をするだけではなく、2016年から2019年にかけては、南太平洋に浮かぶ島国クック諸島のラロトンガ島で暮らしていた時期もある。振り返ってみると、その先々で私の手にカメラが無かったことはなく、旅と写真は私の半生そのものであるということができる。

旅をする人が写真を撮る理由は、大きく分けてふたつあると思う。ひとつは記録であり、もうひとつは共有だろう。
記録という観点で言うと、そこに写るのは旅人が見た風景や出会った人々の姿であると同時に、自身の内面に湧き上がった感動や驚き、郷愁などの想いである。シャッターを切ると、そこに客観的、もしくは主観的な旅の瞬間が記録されることになり、そのときの時間がアーカイブされる。時を経てそれらの写真を見返したときに、撮影者はそこに写っている風景や人物を起点に旅の記憶が蘇り、そのときの感触や感情を追体験することができる。旅先での記録のための写真は、自身のための行為という側面が強い。
実際、私自身、写真を撮り始めたきっかけは記録にある。18歳のとき、沖縄を訪れ、そこで覗いた海中世界に驚き、そのときの風景や感情を忘れないために写真を撮り始めた。そのとき記録したかったのは、自身が見た水中景観と、その世界に触れたことによって湧き上がった感動である。その後、30年近く写真を撮り続けているが、基本的にその原点から遠く離れることはない。
記録は自身のための行為であるが、写真の役割はそれだけにとどまらない。記録の次にあるのが共有である。
写真は、言語と同じく、ひとつのコミュニケーションツールである。言語は地域によって翻訳が必要となるが、写真は違う。英語圏だろうが、スペイン語圏だろうが、少数言語圏で全く言葉が通じなくとも、写真に写ったビジュアルは言語を超えた形で相手に伝わる。自身が実際に見たものを情報として伝えることができるのと同時に、感情までも伝えることができる。しかも、それは性別、年齢も超えることができ、ノンバーバルコミュニケーションとして絶大な効果をもたらす。
多くの人が旅先からSNSに写真を投稿すると思うが、そこで公開された写真はリアルタイムで世界中に配信され、多くの人に共感を生み出す。旅とSNSの相性は高く、SNS上では言語より先に写真がコミュニケーションツールとして作用し、他者へと伝わっていく。当然、SNS上では写真の重要性が高くなる。それが故に過剰な演出や、虚実が入り混じるなどして写真の純粋性が損なわれる結果にもつながることになる。

写真は、撮影という行為の結果として生み出される。先に写真はコミュニケーションツールだと書いたが、撮影行為自体も旅先ではひとつのコミュニケーションとなる。普段は他人に話しかけることに気が引けてしまう人でも、手にカメラを持っているからこそ、勇気を出して旅先で現地の人に声をかけ、写真を撮らせてもらったという経験があるだろう。現在においてはデジタル写真が主流なため、撮った写真をその場で見せることもある。そのとき、撮影行為を通じてもうひとつのコミュニケーションが生まれる。
しかし、旅先での撮影において注意をしなければいけないのは、撮影行為は、ときに暴力的な行為になるということである。写真を撮るということは、相手に属する時間を写真のなかにアーカイブし、撮影者に帰属させる行為でもある。なので、もし相手が撮らないで欲しいというのならば、それには従わなければならない。
私のこれまでの経験上、写真を断るのは100人中1人ぐらいである。その理由の大半は、急いでいたり、感情的に難しい状況にあるなど、そのときその人が置かれている状況によるもので、無意味に断る人はあまりいない。むしろ、多くの人は写真を撮られることにポジティブであると感じている。
多くの撮影者が、自身のなかで勝手に境界を作り出し、この人はきっと写真を撮らせてもらえないだろうなと、勝手な先入観を持ってしまっており、撮影ができないものだと思いこんでいるのではないだろうか。または、相手に対して敬意を持って接してないことが原因で、撮らせてもらえないことも多いのではないかと思う。

展覧会などで世界各地の多様な伝統文化を持つ人々の写真を展示していると、彼らのような人たちを撮るときにお金を求められることはないですか、という質問を受ける。同じようにその土地に行って写真を撮ろうとしたときに、金銭を要求されて、または怒られて、全く撮れなかったのだという。私は人々の写真を撮るときに、特に何も要求は受けていない。その違いはどこにあるのだろうかと考えたとき、それは敬意の持ち方にあるのではないかと思っている。
旅をしていて、他の撮影者に出会うことがよくある。いわゆる僻地と言われるような場所で暮らす人々を前に、まるでサバンナで珍しい動物を見つけたかのように興奮して集団でカメラを向ける人々にも出会ったこともある。それまで私といるときは全く警戒心もなく、快く写真を撮らせてもらっていた人々が、カメラを手にした観光客が押し寄せた瞬間に表情が険しくなり、怒り出す。そして撮影者の方に詰め寄り、手を伸ばしてお金を払えという。
無遠慮にいきなりやってきて、撮影という行為を通じてそこで暮らす人々を一方的に搾取するのならば、その対価を求める彼らの行動は当たり前だろう。彼らは金銭が欲しいということではなく、その手の先に求めているのは敬意なのだと思う。
旅をするという行為は、自身の境界を越えて、他者の境界の内側に入る行為である。さらに撮影という行為は、人間と人間との境界の一線を超える行為でもある。そのときに必要なのは、相手を尊重する気持ちなのではないだろうか。どんな国であれ、どんな生活をしている人であっても、いきなり見知らぬ人間が自身の生活圏内に現れ、無言のままにレンズを向けられたら、いい思いはしないだろう。簡単に言えば、他所の家に勝手に土足であがるのではなく、挨拶をしてから靴を脱いであがる必要があるということだ。
彼らは商品でもなく、見世物でもない。旅もまた、本来は商品ではない。私たちはお金を払って旅の時間を手に入れているかもしれないが、我々が旅先で出会うのは、そこで暮らす人々にとっての日常なのである。それをお金に換算して、商売にしているのは私たち側の勝手な都合と論理である。
であるならば、せめて敬意だけは持ちたい。撮影行為は一歩間違えばとても暴力的になってしまうが、反面、敬意をきちんと持てば、境界を鮮明化させるのではなく、価値観や文化、そして言語の壁を超えるための絶大な力を発揮するコミュニケーションツールになるはずである。

では旅先で良い写真を撮るためにはどうしたらよいか。そもそも良い写真とは何なのか、という問いに対する答えは様々だが、ここでは仮に、旅を終えて振り返ったときに、自身を含め鑑賞者に旅先での心の動きがきちんと伝わる写真であると定義してみる。
そのために必要なのは、どこかで誰かが見た風景をそのままなぞって撮ろうとしないことである。同じ風景を見ても、人それぞれ感じ方は違う。ガイドブックやSNSで、その風景は感動的であると書かれていたとしても、それは誰かが感じた感覚であり、もし自身があまり心動かされないようであれば、撮る必要はない。
大切なのは、旅先で心動かされたのであれば、それがなんであれ、そのまま何も考えずにシャッターを切ることである。写真は何かを意識したときに、感覚的ではなく思考的な写真となり、一気につまらなくなる。写真は、誇張や自己顕示欲、欺瞞など、余分なものが多く写るものである。だからこそ、感じるがまま、何も考えずに撮るのが良い。他者に見せることを考えたり、技術を駆使したり、どこかで見た写真を真似たりとかするのではなく、ただただ自身の心のゆらぎだけを感じて写真を撮ればよい。そんなときに撮った写真にこそ真実が写る。

言葉が通じない場所を旅してそこで暮らす人々の写真を撮るとき、言語はどうしているのかと聞かれることが多い。そのときに私が答えるのは、コミュニケーションは言語だけで成り立っているのではないということである。言語はもちろん便利である。伝えたいことが伝わり、共有したいことを分かち合うことができる。しかし、それは効率的であるというだけで、すべてではない。身振り手振り、表情など、他にもコミュニケーションツールはある。何も全く行動原理が違う動物とやり取りするわけではなく、価値観や考えが違ったとしても、同じ人間である。言語がなくてもコミュニケーションは成立する。撮影という行為は、その手助けをしてくれるはずである。
またどうやったら旅先で印象的な人物の写真を撮ることができるのかという質問を受けることも多いが、それに対して答えるとしたら、リラックスすることだと思う。ポートレート写真に写っているのは、被写体の人物であることには間違いないのだが、そこに浮かぶ表情は撮影者自身の表情が写っていると考えてもらいたい。そういった意味で、旅先で印象先な人物写真が撮れるかどうかは、その旅人自身の世界への接し方次第となる。撮影者がリラックスし心穏やかであれば、当然、カメラを向けられた人々の表情は穏やかなものになっていく。彼らが写真の中で微笑んでいるのは、撮影者が微笑んでいるからである。

最後に少し、旅のエピソードを話したいと思う。
かつて私は3年間、日本を離れて旅をしていたことがある。そのときは南米、アフリカ、ユーラシアを、バスや鉄道など陸路で移動し、バックパッカーとして旅していた。日本を出たときはガイドブック片手に行きたいところを巡っていたが、誰かが見て記録した予定調和的な旅に飽き、すぐに退屈になった。そして旅の仕方がわからなくなり、段々と宿に引きこもるようになっていった。
そんなとき、ボリビアのポトシの街の近くの小さな集落で祭りがあるということを聞き、気分転換に訪れてみた。
ローカルバスを降り、乾燥した丘をしばらく歩いて越えると集落があり、そこで人々が集まっていた。他に観光客はおらず、私は遠慮しながら遠巻きに民族衣装を身につけた若い女性たちが踊るのを見守っていたのだが、踊りが終わったタイミングで踊り子たちが声をかけてくれた。彼女たちは私に、どこから来たのか、なぜ旅をしているのかなど、様々な質問を投げかけてきた。そして飲み物や食事を用意してくれて、一緒に多くの時間を過ごした。祭りは数日間続き、私は毎日通ううちに彼女たちと仲良くなっていった。
そして祭りが終わりを迎え、彼女たちと別れる際に、踊り子のうちのひとりが帽子の装飾の一部の花飾りをすっと抜き取り、私に差し出した。そしてこう言った。
「これを私の代わりにあなたの旅に連れていって」
彼女も本当は旅をしたいが、そのような自由はないのだという。私はその花飾りを受け取り、その後、多くの国と地域を旅した。
彼女が私にその花飾りをくれたとき、私の心は大きく動かされた。その瞬間、私の心に溢れたのは、旅に疲れていた私に、再び旅することの喜びをもたらしてくれた彼女たちに対する感謝だった。この出来事以降、積極的に多くの人々に出会うようになった。出会いは途切れることなく、結局、私の旅は2年という長期になっていった。
あとで知ったのだが、私が訪れたこの祭りは彼らの言葉であるケチュア語でティンクと呼ばれ、出会いを意味する。
私がこの3年間にわたる旅の話をするとき、必ずこのティンクの話をする。しかし、私に花飾りをくれた踊り子の写真は、手元にない。なぜならば、私はそのとき、写真を撮ることができなかったからだ。
写真家として、このときの感情は写真に写すべきだっただろう。しかし、私は彼女の写真を撮らなかった。きっと写真を撮ったとしても、このときの私の内側から溢れる想いは写らないだろうと思ったからだ。

旅先では多くの心の動きがある。その動きを感じたとき、そのままシャッターを切れば、そこに旅人自身の感情が写し込まれるだろう。しかし、もし本当に心の奥底から揺り動かされるような大きな感動に出会ったのであれば、写真に撮ることは諦め、その瞬間の感覚をしっかりと心に刻むことを勧める。本当の想いは写真ではなく、その人自身の内側にこそ深く記録される。写真家としての言葉としては矛盾しているかもしれないが、旅と写真に長く向き合ってきたからこその言葉だと思ってもらいたい。
多くの旅人に、良き出会いがあることを願っている。











