連載 「線」と出会う旅への視点

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「線」と出会う旅への視点

「見えない」異界で、現代人が取り戻すもの

日本には、各地に多様な伝承や、先人たちが育んできた価値観・世界観が残されている。それらは、万物を人間の尺度だけで測るのではなく、「見えないもの」を受け入れて生きる感性に根ざしていたのかもしれない。遠野における“民”の暮らしの営みや感覚、世界観を追体験する旅を通して、現代において先人たちの感覚に触れることの意味を考える。

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 日本の人口はすでに減少局面に入り、各地の里山では空き家や耕作放棄地が増えつつある。まるで森が静かに人のエリアに下りてくるかのように、野生動物の出没が増加し、自然と人間の境界が揺らぎ始めている。このような変化を前に私たちは、人間中心の視点から、自然への尊厳や適切な距離感、そして共に生きるとはどういうことかを、問い直すべきなのではないか。
 手がかりのひとつは、近代以前の人々の世界観だ。万物を人間の尺度だけで測らず、「見えないもの」を受け入れて生きる感性。それに触れることは、過去への単なる回帰ではなく、現代に活かせる、旅の新たな可能性といえるかもしれない。
 深い山々にぐるりと囲まれた盆地、岩手県遠野市。ここには今もなお、異界の伝承が息づいている。先人たちが育んできた「見えないものたち」との関係性には、自然への敬意や距離感、共生の感覚、そして人間が自然の一部として生き抜いてきた感覚が残っている。
Profile 富川岳 さん

株式会社富川屋 代表。シシ/作家・プロデューサー。遠野市観光協会理事、遠野文化友の会副会長。
 岩手県遠野市で地域文化と観光振興に取り組むローカルプロデューサー。東京の広告会社勤務を経て2016年に遠野市へ移住し、翌年に自身の会社「富川屋」を創業。民俗学の視点から地域の物語を現代に活かし、観光企画や地域産品の開発、デザイン・コンテンツ制作などを通じて地域の魅力を発信。また、自ら郷土芸能「シシ踊り」の踊り手として活動し、伝統文化の継承と観光資源化にも尽力している。著書に『本当にはじめての遠野物語』、『シシになる。──遠野異界探訪記』など。

遠野という地、異界の伝承が息づく民俗学の地

岩手県遠野市は、北上高地中央の遠野三山に囲まれた盆地に位置する。7つの街道が交わる交通の要所として、内陸と沿岸を結び栄えた宿場町でもある。四季折々の景観、点在する神社や60を超える郷土芸能団体が活動しているなど、日本の原風景が存在しているといわれる。

遠野と聞くと、柳田國男が1910年に発表した『遠野物語』を思い浮かべる人も多いだろう。遠野で語り継がれてきた119の説話を収録したこの書は、日本民俗学の出発点ともいわれる。河童、座敷童子、オシラサマ、山の神など、“見えないもの”との関係性を、単なる迷信や作り話ではなく、庶民の生活と精神文化を映す「民俗的真実」として捉えたものだ。 市内には河童淵や伝承園など、遠野物語の世界を体感できる場所も点在し、今なお語り部による伝承が行われている。

「カッパの町」と聞くと響きは軽いが、その背景には、真冬はマイナス20℃近くにも達する寒冷な盆地という厳しい自然環境があり、何度も飢饉に見舞われてきた歴史がある。中でも、江戸時代に何度も起きた大飢饉は、2,500人もの餓死者を出すこともあったという。数々の飢饉は、地域社会に大きな影響を与え、家の食い扶持を減らすために老人たちが自ら集まった「デンデラ野」や、口減らしのためにやむを得ず川に流された赤子が河童になったという伝承が生まれ、餓死者を弔うために羅漢像が山中の自然石に刻まれた。
生き抜くための教訓や知恵は語り継がれるうちに地域の物語となり、宿場町でもあるこの土地を訪れる旅人や商人が持ち込んだ怪異譚と共に盆地の底に蓄積されていった。結果として、多様な物語が残る今日の遠野がある。

このような民俗学に触れる旅にはどのような価値があるだろうか。歴史の旅を、「史跡や旧跡など、歴史上の出来事や人物に触れる旅」とするならば、民俗学の旅は「普通の人々である“民”の暮らしの営み、感覚や世界観を追体験する旅」といえるかもしれない。遠野の地で挑戦している一人の移住者を訪ねた。

左:遠野物語の代表格「河童」 中央:遠野物語の序文に「煙花の街」と記されるほど、かつては宿場町として賑わっていた
右:餓死者を鎮魂するために、大小500の自然石に阿羅漢像が彫られた五百羅漢(写真:富川岳)

「シシ」という表現者になる越境体験

夏の遠野の山あいに響く太鼓の音。けものの面をかぶり、地を踏み鳴らす踊り手たち。その中の一人である富川岳さん。新潟県出身ながら、偶然遠野に移り住み、地域や観光に関連するプロデューサーや案内人を担い、時に“シシ”として踊り、また遠野について表現する作家でもある。

シシ踊りの起源は諸説あるが、ひとつには狩猟で命を奪った動物の霊を慰める鎮魂の意味と五穀豊穣への願いがあるとされ、神社で笛や太鼓のお囃子合わせて、奉納される踊りである。踊り手たちが被る、鹿の角を持つ荒々しい面は、鹿と獅子をベースに、牛の角や龍の目などさまざまな動物を寄せ集めたキメラだともいわれている。遠野市内には現在、中断中も含めて17のシシ踊り団体がある。

約10年前、遠野に来た富川さんは、最初からこの地に強く惹かれていたわけではなかったという。数年で離れるつもりが、いくつかの偶然が重なり今に至る。彼は言う、「自分は遠野という土地と2度出会った」と。
 一度目は、柳田國男を追体験するように、ソトモノの目線で遠野を知り、その文化的な深さに戦慄した時期。そして二度目は、柳田をこの土地で待ち受けた“シシ”に、遠野の内側の人間として自らがなった瞬間。全く反対の二つの視点で遠野を発見した感覚があったのだという。
 シシ踊りの踊り手に導かれていたことも偶然。 2018年、張山しし踊りの練習を見学していた富川さんに、保存会の会長が声をかけた。「いいんだ、いいんだ、踊れ踊れ」。その言葉に背中を押され、わずか4日間の練習で遠野まつりの舞台に立つことになった。

シシの面をかぶり、太鼓の音に身を委ねたその瞬間、彼の中で何かが変わった。

ダガイコ、ダンヅコ、ダンダン ダガイコ、ダンヅコ、ダンダン 
 背中を強く押されるような太鼓の拍子に合わせてシシになった瞬間、それまで眠っていた「内なる野生」が目を覚ました、という。

団体に所属して「シシになる」ことは、何百年と続いてきた魂のバトンを受け取る行為でもあり、身体を通して先人たちの感覚を追体験することだという。踊りながら自らを先人たちから続く積み重なりの一部と自覚できたとき、この土地と接続された感覚があったという。彼にとって異界への扉を開く儀礼だったのかもしれない。以降、彼は踊り続けている。

シシになって以来、活動は加速していく。著名な文化人類学者やアーティストたちとの出会いを通して、遠野で得た感覚を体験させる試みを始めた。
 2021年にスタートした「遠野巡灯篭木(トオノメグリトロゲ)」は、遠野のフィールドワークを軸に、民俗、死生観、芸能、食、音楽などを織り混ぜ、シシ踊りと現代アートを融合させた体験型イベントである。富川さんは中心人物の一人として、踊り手でありプロデューサーとして関わっている。筆者が観た、夜の神社の境内で、奏でられた音に合わせて、何十人もの踊り手たちが共に踊る様子は、まさに時空を超えるようで圧巻であった。

「自分は100%遠野の人にはなれない。でも柳田のようなソトモノの立場だからこそ、できる役割がある。」と、富川さんは語る。外から来たからこそ見えるものがあり、内に入った今だからこそ語れることがある。 「夏はシシ、冬は作家」と名乗る通り、季節によって役割を変える。踊り手として踊りを捧げる夏も、言葉を紡ぐ冬も、遠野という土地と深く関わり、異界と外をつなぐ役割には変わりない。
 東京でコピーライターを目指し、必死で働いていた広告代理店時代を経て、シシとなることで、やっと表現者になれた、解放された感覚が今はあるという。一方で広告代理店時代の経験も、創作者・表現者であり続けることを支えている。その道のり自体が、「異界」への越境体験のようにも感じた。

左:踊る富川さん、シシ踊りは、人と自然の争いと調和を表現するとも言われる(写真:三田村亮)
右:「遠野巡灯篭木(トオノメグリトロゲ)」のクライマックスの一幕(筆者撮影)

すべては生き抜くために。「異界」はなぜ生まれたか

富川さんは今も、シシ踊り、地域史研究家、博物館の学芸員などに教えを乞い、先人たちから学び続けている。

遠野の人々は、昔から厳しい自然の中で生き抜くために、農作業や生活の場面で助け合い、互いに支え合う文化を育んできた。さらに宿場町として人が行き交う土地柄もあり、外から訪れる人々を温かく迎え入れ、商いをして、学びや文化を柔軟に取り入れる姿勢も、過酷な環境で生き延びるための知恵として根付いてきたという。
 『遠野物語』の中にも、旅人が持ち込んだ話が再解釈され、土地の物語として根づき、知恵や娯楽の役割を果たしていたものがあるという。こうして外のものを取り込みながら、遠野の人たちは生きてきた。

「シシ踊りなどの郷土芸能では、文化を残していくために新しい人や手法を積極的に取り入れる柔軟性が見られる」と富川さんは感じている。
 地域に伝わる芸能は、一見「保守的で閉じている」と想像されがちだが、富川さんがわずか4日間で踊ることになったように、遠野では移住者が参加することに対してもオープンな団体が増えているという。
 当日の踊りの編成も、集まった人数によって変わり、誰もが何かしらの役割を担う。形式やスキルよりも、全員が関わること、つながりを維持し続けることに重きが置かれている。より民衆的な地域行事として「みんなでやること」に価値がある。だからこそストリートカルチャーのように身近で、誰もが関われる余白があるという。

個人の力ではどうにもならない自然に向き合い、時に折り合いをつけて生きてきたからこそ、遠野の人々はつながりや協力することの価値を理解している。あらゆる人を受け入れ、ともに生き抜く。その姿勢が今も、「形式にとらわれず、続けること=生き残ること」に通じているのではないか。
 「豊かな土地であれば、必死で生き残ることを考える必要はなかったかもしれない」。富川さんのこの言葉には、過酷な自然と共に生きる感覚と、生き抜く覚悟が、遠野の人々に今も無意識に根ざしていることを示唆している。

『遠野物語』に登場するものたちを分類した図(富川さん提供資料)

富川さんは『遠野物語』の世界観を「現世/異界」「人/人ならざるもの」の二軸によって分類し、四象限の関係性として説明している。私たちが普段「現実」として認識している世界は、そのうちの一部にすぎない。

では、「異界」とは何なのだろうか。そこに登場するものたちは、恐れや畏敬の対象であると同時に、安心や教訓、気づきをもたらす存在として暮らしの中に息づいてきた。

遠野では、身近な人が命を落とすことが日常のすぐ隣にあるような、時に獣と命をやりあうような、過酷な自然環境があり、生きる知恵や内なる野生が育まれてきた。人々は、生業の不安定さや貧しさと向き合うなかで、「見えない」自然の不条理を受け入れ、目に見えない存在に祈ること、物語にすることで、現実の悲しみや不安を和らげ、心の均衡を保ってきたのかもしれない。
 亡くなると人の魂は山に還り、家族を見守る。そしてお盆になると帰ってくると信じ、魂が迷わず家に戻れるための目印を掲げる「迎灯籠木(ムカイトロゲ)」という風習が今も残っている。
 もし「目に見える世界」しか存在しないとしたら、亡くなった人はその瞬間消えることになる。しかし異界の存在を受け入れることで、故人を偲ぶ気持ちは癒され、心の拠り所が生まれる。魂は自分たちを見守り、毎年夏に帰ってくるんだという感覚は、人々の心を温かく包み込んでくれるに違いない。

遠野をあちこち巡る中で、「異界」とは単なる迷信やファンタジーではなく、世界を少し柔らかく捉えなおすための視点であり、人間の万能感を手放し、謙虚さを取り戻すための装置として、暮らしの中に自然と根づいてきたもの、そのように感じられた。

柳田國男は日本各地の民俗を記したが、今も長く読まれ続けている『遠野物語』は、かつてこの日本に生きていた人々の記憶とつながる場であり、その世界を探求することは自分自身への問いや内省を深める可能性を秘めている、と富川さんは感じている。

左:見えない世界に触れるため、先人と遠野を歩く
中央:お盆に見られる迎灯籠木(ムカイトロゲ)、布の色は白が男性、赤が女性なのだという
右:ガイドの際には、参加者の内なる気づきにつながるよう相互に意見を交わす(写真:富川岳)

民俗学の旅が、現代にもたらすものは

情報が飛び交い、合理化のためのテクノロジーが進化し続けている現代。あらゆることが科学と論理で説明され、確実な正解があるかのように思わされる時代。だがその一方で、割り切れない感情や、理解できない状況や他者、自分の力ではどうにもできない出来事に対する心の置き場が、少しずつ失われているのかもしれない。
 自然との距離感もまた、揺らいでいる。人の手が離れた里山は静かに朽ちて自然に還りつつあり、野生動物が人の暮らしへと歩み寄ってくる。そんな変化の中で、私たちは自然に対する謙虚さを、今一度見つめなおす時期にきているようにも思う。

遠野に息づく「見えないもの」を受け入れる文化には、非合理や不確かさを排除せずに、曖昧さやわからなさと共に生きる、おおらかさがあると感じた。それは、目に見えるものや、自力でコントロールできるものに囲まれて過ごすうちに、私たちが忘れてしまいがちな感覚と思う。すべてが見えすぎる社会で、「“見えないもの”を信じるか、信じないか」、という二択ではなく、それを含めた世界の新たな捉え方を、自分の中にインストールしてみる体験。そこから日常へ戻ったとき、自分の悲しみや怒り、解せないことなどに対する感覚が、少し変わっているかもしれない。

富川さんが構想するのは、遠野を「先人たちの感覚に接続できるデータベース」として捉え、必要とする人がアクセスできるように整えること。案内人やプロデュースの仕事に加えて、長期滞在拠点の整備や、遠野物語や郷土史に関する古本を集めて保存し、必要な人に届けていく古書店の準備も進めている。「常につながっている必要はない。けれど、必要なときにその感覚を取り戻せることが現代に大切なのではないか」と語る。

案内人とは、正しい道を示す人ではない。富川さん自身、自らも道中にいて、時に迷い、時に踊り、語りながら、今を生きている。よそ者として入り、担い手として踊り、自らが戦慄した遠野という土地で、“扉”となる入口と、奥に進むための深いスロープの双方をつくろうとしている。

私たちが遠野で出会うのは、河童や座敷童子そのものというより、それらを必要としてきた先人たちの感覚であり、彼らが世界をどう見て、生きてきたかという視点、生きる抜くための知恵だ。合理的な世界の外に身を置くことで、私たちは「見えないもの」と出会い、共にあることの豊かさを思い出す。
 民俗学の旅は、遠い“歴史に名を残したの勝者や有名人”ではなく、誰もがその一人である当時の“民”の視点を追体験する。だからこそ、身近でリアルに想像しやすく、自分に置き換え、考える機会になる。それを今の日常にどうつなぎ直し、一人ひとりが生きやすくなるための手がかりとできるか。それこそが民俗学の旅が与えてくれる問いなのかもしれない。

遠野にて筆者撮影

「線」の観察者の一言

「見えないもの」は、魂や妖怪だけではない。「感情」、「信頼」、「関係性」、「愛」、そして「未来」など、私たちの日常にもあり、信じたいと生きている。だが合理化と効率化に急かされる世界では、それが確かな「見える」形であってほしいと、願ってしまうものかもしれない。でも、人生はコントロールできることばかりだろうか。その反対にあるものが、異界にある「わからなさ」と「あいまいさ」である。
 富川さんと話していて印象的だった「下につながった」という言葉。それは先人たちの感覚に触れることで、自分自身の根を下ろし、外側に振り回されない自分の幹をつくること、ある意味で「強く生きる力」のように感じた。

執筆者:副主任研究員 中尾 有希