“Tourism×平和” 観光と安全保障が紡ぐ人類の歴史
観光は、レジャーや経済活動にとどまらず、歴史を通じて人々の移動や交流、社会の安全保障とも深く結びついてきました。本稿では、戦争や技術革新が観光に与えた影響を振り返り、現代における観光の平和・国際理解への役割を探ります。

神山 裕之 北海道大学 大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授
目次
1.古代から常に表裏一体であった観光と戦争
古来、旅と戦争は歴史を紐解けば切っても切れない関係にあった。人類は生活圏や交易圏求めて移動を行い、その過程で外敵とぶつかると、領土や交易権を争って敵地に攻め入るために遠征した。その過程を通じて移動手段、必要な携行品の運搬手段、移動する際に参考にする地図などを整備し、現代の旅を形成する各種手段が形成されたのである。
これらの手段は、歴史の中で様々な発展を経てきた。干し肉に代表される食品保存技術は、ペロポネソス戦争のような海上における戦闘や遠征を可能にし、方位磁針の発明と改良は大航海時代をもたらし、ヨーロッパによる世界の支配につながった。海上を含んだ長距離を移動するために、人類は様々な発明を行い、その移動が可能となったことにより、しばしばその移動先々で侵略や係争が行われるといった皮肉な状況が発生したのである。
だが、こうした移動手段に関する発展は、同時に戦争に関係のない移動も可能とした。その代表的な、ある意味観光の創成期の形態と言えるものが、巡礼である。人類史上最も古い巡礼は、恐らくユダヤ教徒によるソロモン神殿への巡礼であろう。だが、この巡礼はユダヤ人の生活圏を鑑みると、一定の限定された範囲における移動であった。だが、キリスト教が普及し、ヨーロッパから聖地エルサレムへのキリスト教徒の巡礼者が増えると、軍事や交易目的以外の旅行が盛んになる。この巡礼者が宿泊する巡礼教会が「ホスピス」と呼ばれ、そこにおける歓待が「ホスピタリティ」の語源となっていることは良く知られている。
他方、この巡礼もまた形を変えた戦争を引き起こすことになる。言わずと知れた十字軍がその代表である。諸説あるが、1095年のクレルモン公会議に端を発する十字軍は約9回にわたり200年近くにわたって断続的に実施された、西欧諸国による聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪回するための戦争である。中世の交通機関が発達していなかった時期に行われた大規模な遠征は、目的を達成したものもあれば失敗したものもあったが、その過程において西欧と中東をつなぐ移動ルートが形成された。十字軍の輸送路や補給拠点でもあった地中海とその沿岸諸国の代表格であるヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国はこの時期に隆盛を迎えた。特にヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを押さえ全盛期を迎えることになり、現在の観光地の基礎となる発展につながった。
戦争は、多くの戦闘要員と、それらが必要とする武器・食料等を携行する。そのために海路や道路が整備されるようになった。また、食料等を現地調達するために、その行軍経路においては食料、水、燃料等を補給するサービス等が発達した。宿泊に関しては露営も行われたが、修道院や要塞等への宿泊も行われ、商業的な宿泊施設ではなくとも、まとまった人数を宿泊させるための段取りが発達するようになった。
こうして、一度にまとまった人たちが移動するための道路、交通手段、宿泊施設、飲食等の必需品の補充や提供といった観光の基礎となる一連の施設やインフラ等が戦争とともに発達・整備されてきたのである。

【東エルサレムの「岩のドーム」】
古くから巡礼の対象として、時には紛争の対象として扱われてきた。※筆者撮影
2.産業の発展とともに発達した観光と戦争の関係
19世紀に鉄道と蒸気船が実用化され、人々のモビリティ手段が急速に向上することになるが、この時もこの発展をいち早く取り入れて活用したのが軍事分野であった。後にプロイセンの参謀総長、ドイツ帝国の陸軍元帥となるヘルムート・フォン・モルトケは、ベルリン・ハンブルク鉄道理事を兼任していた時期に鉄道の有用性を見抜き、その軍事活用を積極的に提唱した。モルトケは、参謀本部に鉄道課を設置し、商工省に対して鉄道の軍事利用の相談を行うとともにプロイセン西方において一軍団につき一複線の鉄道整備を要求した。19世紀半ばに急速に発達した鉄道により、戦争の形態も変化する。即ち、分散進撃と決戦場における集中という戦略が可能となり、鉄道網を充実させたプロイセンは普墺戦争と普仏戦争に勝利することになった。
戦争が近代化するにあたって、正確な地形を把握するための地図の作成が行われた。この地図の作図のために技師や軍人が旅行することはもちろん、結果として作られた正確な地図や鉄道の路線図は、後の平和時における観光にも寄与することになった。
軍事のみならず産業・物流の観点からも急速に整備された鉄道網は、人々の移動も容易にし、結果として鉄道旅行という概念が登場した。馬車や徒歩による移動に比較し、鉄道移動は移動距離を飛躍的に伸ばしただけではなく、旅の安全性にも寄与した。当時は徒歩や馬車による移動では強盗等に合う可能性も高く、鉄道であれば、その心配は相対的に低下したのである。富裕層は鉄道により、避暑や避寒を目的とした移動を容易に行うことができるようになり、もちろん現在の旅行と同じように物見遊山にも利用された。特に、イギリスにおいて富裕層の子弟が学業終了時に教養を深めるために実施する海外旅行であるグランドツアーは、この鉄道によりその行動範囲を広げ、より活動範囲を広げることとなった。これは長期にわたる上、帯同する家庭教師等の費用も賄える富裕層のみが利用するという点において、現代の修学旅行とは異なるが、一種の教育旅行の走りともいえよう。
近代的な旅行会社の元祖ともいえるトーマス・クックが設立されて団体旅行を手配しだしたのも19世紀中ごろであり、現代的な意味における旅行・観光の形態が定着したのがこの時期である。まさに戦争の近代化と並行して観光の近代化も確立されたのである。
20世紀にはいると、戦車、飛行機、潜水艦、無線通信等が発明・実用化され、戦争の形態も一層近代化されることになった。こうした交通や通信手段の発達は、人々をより遠くに、早く安全に輸送することを可能にし、必然的に観光の発達も促すことになった。乗客輸送を目的として設立された最初の航空会社は、1909年10月に設立されたドイツ航空 (DELAG)であり、これは1914年に始まる第一次世界大戦よりも前のことである。もっともこの航空会社が運行したのは硬式飛行船であり、主に遊覧とハンブルクと他の地域を結ぶ不定期路線であった。
民間飛行輸送は第一次世界大戦のために一時期中断したが、戦争が終わると余剰となった軍用機を用いて旅客輸送が活発に行われることになった。第一次世界大戦終戦直後の1919年に設立された現存する最古の航空会社と言われるKLMオランダ航空は、まさにこのビジネスモデルで営業を開始した代表的な航空会社であった。
3.二つの世界大戦と観光
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦間期にはつかの間の平和が訪れた時期であったが、歴史的には世界恐慌による経済不況と、それに端を発するブロック経済圏や植民地をめぐる国際的な緊張が徐々に顕在化してきた時期でもあった。各国は鉄道権益や、海路、空路の確保に努めるために、鉄道沿線や島嶼部の基地に軍を駐屯させたり、飛行場を整備したり、艦隊を派遣したりした。この期間において、特に航空機は技術的に目覚ましい発展をし、軍艦は軍縮条約の影響もあり、戦艦以外の艦艇の充実化や、限られた排水量内で強力な武装を行うといった様々な分野で技術革新が行われた。
こうした、技術革新や鉄路、空路、航路の開拓・維持は結果として民間旅行の活性化をもたらした。有名な南満州鉄道の「あじあ」が大連と哈爾濱を13時間30分で結んだのも1935年のことであった。「あじあ」は当時としては画期的な全車両冷房装置付きで、食堂車や展望車を配し、車内ではカクテルを提供するなど、現在の優等列車やクルーズトレインにも匹敵するサービス内容で、当時の旅行者からは高い評価を得ていた。沿線各地に南満州鉄道自身が整備した「大和ホテル」は近代的で質が高い宿泊施設で、統一ブランドで一定の質を担保する現在のホテルチェーンにも通じるものであった。また鉄道沿線開発に宿泊施設を組み込むという当時としては先進的なモデルであった。
第一次世界大戦によって旧ドイツ領の南洋諸島の委任統治を行うことになった日本は、その制約上、軍事施設を設置することができなかったため、交通結節点の確保と将来の軍事利用も視野に入れた同方面の航空路線の整備に力を入れた。具体的には、1939年から大日本航空により横浜・サイパン・パラオ間に定期航空路線が開設され、海軍九七式飛行艇の民間機型の機材を用いて民間航空輸送を行った。1940年には数少ない東南アジアの独立国であるタイのバンコクと東京の間で定期航空路線が開設され、バンコクではイギリスのインペリアル航空、KLM航空、エールフランス航空と接続することができた。なお、これらの大日本航空の機材や乗務員の多くは、まもなく始まる「大東亜戦争」において「特設第13輸送飛行隊」に編入され、戦争の一翼を担うようになった。
このように交通手段も発達し、現在の旅行・観光に近い環境が整備された20世紀前半であったが、それでも航空機による海外渡航などは、当時はまだ一部の官僚、軍人、民間人の出張需要等が多く、庶民にとっては、海外旅行などはまだ気軽に誰でもいけるような性質のものではなかった。
この余暇を組織的に国民の間で広め、国策に活用したのが第三帝国(ナチス・ドイツ)である。第三帝国は1933年にドイツ労働戦線の下部組織として歓喜力行団(KdF)を設立した。この団体は、国家の管理のもと、旅行・観光、スポーツ、コンサート、各種祭典などを企画し、国民の福利厚生の充実とともに、それを通してナチス政権への協力度を高めることを目的としていた。
KdFの施策の中でとりわけ力を入れた施策の1つが旅行・観光である。KdFはリューゲン島に巨大なリゾート施設を作ったり、クルーズ船によるパッケージツアーや音楽コンサートを催行したりするなど、それまで労働者階級には手が届かなかったようなレジャー活動を広く国民全体に提供した。このKdFによる催行旅行は現代におけるパッケージツアーの走りとも言え、KdF自体が1930年代後半では事実上世界で最も大きな旅行代理店ともいわれるくらいの規模となっていた。
時は前後するが、大規模な移動を伴う軍事的な行事として、我が国では1892年から1936年まで初期や日露戦争期等を除いて、「陸軍特別大演習」という複数の師団が二つの軍団に分かれて数万人規模で実施する演習を毎年行っていた。この演習は毎年場所を変えて行っており、北は北海道から南は鹿児島に至るまで全国各地で実施された。演習には、その実施地域を中心とした場所に駐屯する師団が参加する一方で、天皇臨席で行われるため、参謀本部等の中央からの出張組はもちろん、周辺地域の一般市民にとっても天皇が行幸されるということで多くの見物客が訪れる一大イベントであった。演習場や演習実施場所には、こうした見物客を当て込んだ物売り等も多数押し寄せ、一般市民は物売りから弁当を買って演習を見物するといった、現代のイベントやフェスでも見られるような様相を呈していた。

【ウィーンのアウガルテン高射砲塔(L塔)】
第二次世界大戦中に建造された高射砲塔のいくつかがウィーンやハンブルクに現存する。巨大で頑丈なため、取り壊しが難しく、他施設に転用されたものもあるが、このように放置されているものもある。近年、このような戦跡ダーク・ツーリズムの対象として静かな人気がある。
4.戦後における観光の発展と平和産業としての観光
第二次世界大戦による敗戦を経て、我が国における戦後の急速な経済やインフラの立て直しは、運輸需要の拡大をもたらし、交通網もそれに伴って整備されることになった。戦前・戦中に発展した軍需産業の多くは民生産業に転換され、我が国においては朝鮮戦争の特需もあり製造業を中心に産業・経済は急速に回復することとなった。かつて海軍航空技術廠で爆撃機「銀河」や特攻機「桜花」の開発に関わった元海軍技術少佐の三木忠直は新幹線0系の開発に関わり、戦後の高速大量輸送に貢献した。軍隊の動員増加に伴って発達した軍弁の仕出し業者は、地域ごとにバラエティに富む駅弁を作り出し、高度成長期の観光や出張における食の需要を満たすことになった。第二次世界大戦の遺産が戦後に観光発展のために活用されることとなったのである。
人類の歴史は戦争の歴史であるとも言われるが、以上に見てきたように、観光も戦争と様々な形態で密接に関わりながら発展してきた。だが、近年においては観光が戦争を抑止するという平和産業としての機能を果たしていることに着目されるようになってきた。
例えば、ダークツーリズムがそれである。ダークツーリズムは、人類が犯した過ちや、過去に発生した災禍を目の当たりにし、体験し、それらの負の遺産を通して悲劇を繰り返さないための教訓を得たり、自らを省みたりする観光の形態である。よく知られる場所の例としては、広島の原爆ドーム、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所等がある。ことの性質上、戦争に関する施設や遺構が多いことが特徴である。戦争に関わるダークツーリズムは、このようなよく知られた場所だけではなく、世界中の様々な場所で行われている。例えば、チェコのプラハでは、ナチス・ドイツ占領下において親衛隊がかかわった市内の様々な場所を訪問しながら、占領下の歴史を学び体験する着地型観光ツアーが催行されている。
人々は、これらの施設や遺構を訪問し、核兵器の恐ろしさや、ホロコーストの悲惨さを学び、歴史の過ちを学び、その再発を防止することの大切さを各々が考えることになるのである。その意味では、過去の負の遺産ではあるが、現在、そして未来への平和や安全保障につながる学びの場として機能している。
他方、こうした戦争に関する施設や遺構には、イデオロギーやプロパガンダと結びつき、過去の悲劇を省みることよりもむしろ敵愾心を醸成するものも存在する。戦争に関する施設や遺構はその伝え方、体験の仕方によって全く異なる作用をしてしまう危険性をはらんでいることも現実として受け止める必要があろう。
観光は異なる生活圏への訪問によって、程度の差こそあれ何らかの形で現地の人や文物とのコミュニケーションが発生する。その結果、良い体験をしたと思えば、そのデスティネーションに対するイメージもおのずとよくなる。これが、ひいては戦争の防止の一助になる可能性がある。言論NPOが2024年に行った調査によると、日本を訪問したことがない中国人で日本に好意的なイメージを持っていた人はわずか3%にも満たなかったにも関わらず、日本を訪問したことがある中国人のうち、日本に好意的なイメージを持っていた人は、55.6%であったとのことである。即ち、観光をすることによって異なる国や地域の人々や文化に触れることにより、それが好意的なイメージにつながり、理解の促進につながる可能性を持っているということだ。こうした観光による相互理解が高まれば、それだけ安全保障上における脅威も低下し、戦争の危険性も相対的にさがることが期待される。
観光が平和に役に立つのは、何も人々の精神面における効用だけではない。観光は訪問先において基本的には消費を伴う行為である。相対的に貧しい発展途上国においては、インバウンドが落とすお金は貴重な外貨であり、現地にとってはすぐに現金収入が得られる輸出産業だ。換言すれば、富める国から貧しい国への所得や富の移転である。戦争は、しばしば経済格差が原因で発生することを鑑みると、この富の移転は長い視点で見れば戦争の芽を摘むことにつながる。人々の相互理解と富の移転を同時に達成するという一石二鳥の機能を観光は持っているのである。
しばしば技術は戦争とともに発達したが、それはまた人類の発展にも寄与したと言われる。観光も同様に戦争ともに発達してきたが、合わせて安全保障にも役立つ平和産業でもあるのだ。しかも誰でも明日からでも実行でき、かつ本人にとっても恐らく有意義で楽しい体験を伴う。人口が減少し様々な産業において国際的に激しい競争環境下にさらされた我が国にとって、今後有望な産業の一つが観光というのは、今日も絶え間がない戦争にさらされている世の中において、大きな希望となるのではなかろうか。