1. コラム
  2. 旅のチカラは、社会的支援となりうるか―対話型旅行プログラム「こことり」に関する実証研究から―

研究員コラム

旅のチカラは、社会的支援となりうるか―対話型旅行プログラム「こことり」に関する実証研究から―

臼井 香苗

主任研究員 ヘルスツーリズム研究所 所長

公開日

「なんとなく元気が出ない」「楽しみを感じにくい」──そんな"心の不調"が広がる現代社会で、人とのつながりや余暇活動を通じて健康を支える「社会的処方」が注目されています。旅は、その新たな選択肢となりうるのか。本稿では、JTBの新サービス「こことり」誕生に至った仮説検証型の実証研究を、研究支援者の立場から報告します。

1.現代社会に広がる「心の不調」という課題

日本は世界有数の長寿国である一方、孤独やストレス、不安の増大が、現代社会における大きな健康課題となっています。特に近年、「なんとなくやる気が出ない」「疲れやすい」「以前は楽しめていたことを楽しめない」といった状態、いわゆる“心の不調”を自覚する層の広がりが指摘されています。実際、政府の調査によると、国民の約9割が何らかのストレスや不安を抱えており、さらに約4割(37.7%)が孤独感を「たまにある」以上と回答しています。特に20~50歳代では、ストレスや不安、孤独感を感じる割合が比較的高い傾向がみられます。こうした不調の多くは医療機関で診断や治療の対象となりにくいものの、一方、生活の質(QOL)や社会参加に長期的な影響を及ぼす可能性があります。(図1・図2)

(図1)年齢階級別ストレス・不安
あなたのこころの健康の現状にあてはまるものをひとつお答えください。

出所:厚生労働省「令和5年度少子高齢社会等調査検討事業報告書」より筆者作成

(図2)年齢階級別孤独感
あなたはどの程度、孤独であると感じることがありますか。

出所:内閣官房孤独・孤立対策担当室「人々のつながりに関する基礎調査(令和7年)より筆者作成

このような現代社会が抱えるウェルビーイングの課題に対し、医薬品に限定されない新たなアプローチとして「社会的処方」が国内外で注目を集めています。社会的処方は、薬や心理療法といった医療的介入だけでなく、人とのつながりや地域活動、文化・余暇活動への参加を通じて健康やウェルビーイングの向上を図るアプローチです。英国NHS(National Health Service)では、医師や看護師が患者を専門のリンクワーカー※につなぎ、ガーデニング、ウォーキンググループ、音楽やアート活動などへの参加を支援する仕組みが整備されてきました。これらの取り組みは、抑うつ感や孤独感の軽減、主観的幸福感の向上に一定の効果を示しています。(※患者さんのケアについて、医師やケアマネージャーなどの専門職と地域資源との橋渡しをする人)

では、多くの人々にとってポジティブな体験となりうる「旅」は、心身の健康や社会とのつながりを支える新たな社会的資源となり得るのでしょうか。JTBでは、「旅の思い出や憧れを語り合う対話」が人々のウェルビーイング向上につながるのではないかとの仮説を立て、その有用性を検証するための調査研究を実施しました。本稿は、この仮説検証を通じたサービス開発のプロセスと、その成果として誕生した新サービス「こことり」について、研究支援の立場から報告するものです。

旅は、訪れること自体を目的とするだけでなく、人々の心の健康や社会とのつながりを支える手段としての可能性も秘めています。本稿が、旅行業界や研究機関、自治体の皆様にとって、旅の新たな価値を考える一助となれば幸いです。

2.新しいサービスコンセプトの着想とプログラムの構築、効果の仮説

JTBの対話型旅行プログラム「こことり」は、実際に移動を伴う旅行ではなく、「旅の思い出や憧れを語り合う対話」を通じて心理的活力の回復を促す点に特徴があります。このサービスは、開発者自身の長期入院経験から着想を得たものです。入院中、人と話す機会が減ることで気持ちが沈みやすくなる一方、旅の思い出を振り返ると自然と笑顔になれることに気づきました。そこで、「旅の思い出やこれから行きたい旅について語り合うことで、楽しい感情や意欲が呼び起こされ、日常の行動が活性化するのではないか」との仮説を立てました。

内容は、JTBスタッフがファシリテーターとなり、参加者と過去の旅の思い出や今後行ってみたい旅について対話をするものです。

プログラムは、認知行動療法における「行動活性化」の手法を取り入れて構成されています。まず、豊富な旅行の知識と経験を持ったJTBの添乗員や旅行企画・販売経験者の中から、本プログラムのファシリテーショントレーニングを行い、対話のスキルを身に付けていただきました。調査対象者は過去の旅を振り返る中で、自分がどのような活動に喜びや達成感を感じていたかを再認識し、「行動することで楽しさが得られる」感覚を思い出します。そして、そのような活動を日常生活の中で増やしていくことで、生活を楽しむ力や主体的な行動を育むことを目指しています。

3.仮説検証のための研究デザイン

その仮説を客観的に評価するため、早稲田大学人間科学学術院の鈴木伸一教授監修のもと調査研究が実施されました。

(1)方法

新サービスの効果を主観的な感想ではなく客観的なエビデンスとして示すため、医学・心理学領域で標準的に用いられる信頼性の高い「ウェイティングリスト法によるランダム化比較試験(RCT)」を採用しました。
ウェイティングリスト法とは、参加者を「すぐにプログラムを受ける群」と「一定期間待機した後に受ける群」に分け、その変化の差を比較することでプログラムの効果を検証する方法です。
対象者は20~75歳の一般成人で、適格・除外基準に基づき研究参加者を募集し、同意を得られた方々をランダムに2群に割り付けました。

介入群(A群): 直ちに「旅の思い出や憧れを語り合う対話」プログラムに参加する群。
待機群(B群): 一定期間待機した後、同様のプログラムに参加する群。

この手法により、プログラムの介入効果と、単なる時間経過による自然な変化とを比較し、プログラムの純粋な影響を評価することが可能となります。介入群では、オンライン環境下で約50分間の対話セッションを2回、約1週間の間隔をあけて実施しました。一方、待機群は一定期間後に同一プログラムを受ける設計とし、その間は統制群として機能します。(図3)

(図3 測定の時期)

(2)評価項目と分析

測定指標としては、やる気・活気の回復(POMS2検査)、生活の喜びや楽しみを感じる力(EROS及びVAS)、自己効力感(GSES)、主観的幸福感(SHS)、および主観的な笑顔・感情状態(笑顔スケール)といった、心理学分野で妥当性が確認されている複数の尺度を用いてスコア判定をしました。測定は介入前、介入直後、さらにフォローアップ時点で行われ、短期的変化と維持効果の双方を分析しました。

(3)調査結果

分析の結果、先にプログラムへ参加した介入群と同期間はまだ参加していない待機群との比較では、介入群の主観的幸福感のスコアが統計的に有意に向上しました。また、フォローアップ測定においても、幸福感の向上が概ね維持される傾向が確認されました。この結果は、対話型旅行プログラムの効果が一過性の気分変化にとどまらず、一定期間持続する可能性を示唆しています。これらの結果は、「旅の対話」が参加者の全体的な幸福感に対してポジティブな影響を与えるという私たちの仮説を強く支持するものでした。

(図4 調査結果)
主観的幸福感のスコア結果

4. エビデンスに基づくサービス化へ ― 「こことり」の誕生

この検証結果を踏まえ、株式会社JTBはプログラムの内容をさらに精査し、プログラムの正式な事業化を決定しました(https://www.jtbbwt.com/business/service/solution/benefit/health-support/kokotori/)。  このサービスは、旅の思い出を語ることで、楽しい・嬉しいといった感情を振り返り、また旅に行きたいと思えるような感情を膨らませることで、元気なこころをとり戻すという想いを込めて、「こことり」と名付けられています。
本サービスの意義は、旅を「非日常的な移動」ではなく、心理的資源として捉え、認知行動療法における「行動活性化」の理論をベースとし、過去のポジティブな経験を想起し、その意味づけを再構成することが、次の行動や期待を生み出す契機としています。

出典:株式会社JTB WEBサイト

※「こことり®」は医療行為や心理治療を目的としたサービスではありません。日常のウェルビーイング向上をサポートするプログラムです。

5. 社会的支援としての「旅」の可能性

社会的処方が目指すのは、問題を"解決する"ことではなく、生活の中に再び楽しみやつながりの回路を取り戻すことです。対話型旅行プログラム「こことり」は、旅の思い出という個人個人の胸に深く残っている資源を媒介に、しぼんでいた心の風船を膨らまし、また一歩足を前に出す、その回路を静かに再起動させる一つの選択肢となりうるでしょう。

旅が医療でも福祉でもない第三の領域から、人々のウェルビーイングを支える社会的資源としてどのように位置づけられていくのか。その可能性を、今後のさらなる実践と研究の積み重ねによって、より立体的に描いていきたいと考えています。

旅は、訪れること自体が目的となる時代から、人々の心の健康やつながりを支える「手段」としても活用されうる時代へ——本稿で紹介した事例が、旅行業界のみならず、研究機関や自治体、福祉・健康分野の関係者の皆様にとって、旅の新たな可能性を考えるきっかけとなれば幸いです。JTB総合研究所は、引き続きエビデンスに基づく調査研究を通じて、その実践を支えてまいります。

著者

主任研究員 ヘルスツーリズム研究所 所長

旅による心身の健康的価値を研究。ヘルス・ウェルネス・サステナブルの観点から、地域資源を活かしたプログラム開発やまちづくり、行政事業の推進に取り組む。

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