観光が日本の成長戦略であるべき理由 ―外貨・地方・人材を支える「統合型産業」として再定義する―
観光は外貨獲得、地域産業、人材育成を支える重要分野であるにもかかわらず、政府が示す「17の戦略分野」には含まれていません。本コラムでは、観光を国家的課題の解決に資する“統合型産業”として捉え直し、成長戦略の中枢として位置づけるべき方向性を提言します。

山下 真輝 フェロー
目次
1.「戦略分野」から消えた観光という問題提起
政府は現在、日本の将来を左右する新たな経済対策の策定を進めています。その中心にある「総合経済対策に盛り込むべき重点施策(案)」には、AI・半導体・エネルギー・宇宙・コンテンツなど、これからの日本を支える17の戦略分野が掲げられています。地政学リスクの高まりやサプライチェーンの不安定化を背景に、「ハードパワー」への投資を重視する方針は理解できますが、そこに「観光」の文字はありませんでした。
これまで観光は、GDPの成長や雇用の創出、地方経済の活性化など、多くの分野に貢献してきました。しかしながら、国家の成長戦略における位置づけが、必ずしもその重要性に見合っていないと懸念する声も聴かれます。もし観光が「余暇」や「おもてなし」の延長線上でのみ認識されているとしたら、将来的な成長戦略において、見直すべき点があると言えるのではないでしょうか。なぜなら、日本が直面している「経済安全保障」「国土強靱化」「賃上げ」という三つの国家的課題に対して、観光は同時に貢献しうるポテンシャルを持っているからです。
以下では、その理由を順に見ていきます。
2.観光は「世界最大の産業」であり、日本の最強の“外貨エンジン”
まず、「供給力」という言葉を観光の視点から捉え直してみます。
供給力というと工場の生産能力を思い浮かべがちですが、資源に乏しい日本にとっては、「外貨を稼ぎ出す力」そのものが供給力です。2024年の訪日外国人旅行消費額は、すでに 8兆円規模に達しています。政府は2030年までに 15兆円 を目標に掲げており、観光は自動車・電子部品などに並ぶ「巨大な輸出産業」として位置づけられつつあります。
観光には、他の輸出産業にはない特徴があります。それは、「日本国内での観光体験(インバウンド体験)→ 帰国後の日本製品・サービスの購買(アウトバウンド購買)」という強い好循環が生まれることです。この好循環によって、例えば次のような消費が生まれています。
- 日本で食べた和牛や果物を、帰国後に越境ECで購入する
- アニメやゲームの聖地を訪れたファンが、関連グッズやコンテンツの購入を継続する
- 産地や工房を訪問した旅行者が、工芸品を指名買いする
体験をきっかけに、日本の食・商品・文化・サービスに対する継続的な需要が世界各地で生まれます。観光は、外貨を直接稼ぐ産業であると同時に、他の輸出産業の需要を押し上げる“外貨エンジン”でもあるのです。
3.観光は地方創生の切り札 ―第一次産業からサービス産業まで、地域をつなぐ「価値連鎖の中心」―
地方経済を支えているのは、一次産業や製造業だけではありません。実際には、宿泊・飲食・小売、交通、観光サービスに代表される第三次産業が地域雇用の大半を占めており、地域経済の主軸を担っています。
その第三次産業の“入口”として外から需要を呼び込み、地域全体の所得を引き上げる起点となるのが観光です。観光は、単に旅行者を受け入れるサービスにとどまりません。農林水産業(第一次産業)や地場の製造業(第二次産業)、伝統工芸、文化・歴史資源、地域金融といった、地域に存在する多様なプレーヤーと直接・間接に結びつき、価値を循環させる役割を果たします。その繋がりは、例えば以下のような形で地域に価値をもたらします。
- 宿泊施設の地域食材利用が、農業の収益を拡大する。
- 体験プログラムの提供が、工芸職人の新たな市場を創出する。
- 観光需要の高まりが、地域金融の投資機会を増やす。
- 文化資源への再評価が、地域の誇りと担い手を育成する。
このように、観光は地域の多様な産業をつなぎ直し、稼ぐ力を地域内に循環させる“産業クラスターのハブ”として機能するのです。
4.観光は「賃上げ」と「人材育成」を牽引する中核分野
日本の観光産業は、長らく全産業平均を下回る賃金水準が課題とされてきました。しかし、大きな成長ポテンシャルを持つからこそ、観光は日本の「賃上げ」を牽引する中核分野となり得るのです。観光分野が賃上げを実現していくためには、まず “稼ぐ力” の転換が欠かせません。これまで日本の観光は、価格競争に陥りやすく、薄利多売の構造が課題でした。しかし、欧米豪の旅行者を中心に「唯一無二の体験」には正当な対価を支払う層が増えています。
地域ならではの自然・文化・食・暮らしを、体験価値として適切に価格づけできれば、利益率は大きく改善し、それが賃上げにつながります。高付加価値化は、観光産業における最も有効な賃上げ戦略なのです。
さらに観光は、若者や女性が活躍しやすい成長分野でもあります。宿泊、交通、飲食、レジャーといった“見えやすい”サービス産業だけでなく、観光には驚くほど多様な職種が関わっています。接客や案内はもちろん、地域の魅力を伝えるガイド、体験プログラムを企画するプロデューサー、デジタルやデータ分析を行うマーケター、観光地の経営管理を担うマネジメント人材。さらに、食や工芸を支える生産者、ローカルクリエイター、写真・映像・コンテンツづくり、通訳案内士、地域金融、伝統文化の担い手など、観光は多職種が連携して価値を生み出す“総合産業”です。
こうした多様な専門性を支えるのが、政府も進めるリスキリング(学び直し)です。観光分野における人材育成は、単なる能力向上ではなく、地域の付加価値そのものを高める“投資”だと言えます。観光は、人材が育つほど地域の稼ぐ力が強くなり、賃上げの基盤が整う分野なのです。
観光を「賃上げ」と「人材育成」の中核分野として位置づけることは、地域の持続的な成長につながる最も合理的なアプローチです。
5.観光は「生活の安全保障」と国際交流を支える平和産業
最後に、観光と社会との関係について触れておきたいと思います。近年、訪日外国人旅行者の急増に伴い、地域の生活環境やマナー、交通混雑といった課題が注目を集めています。こうした論点が可視化されるほど、観光と地域の日常生活をどのように調和させるかという問いが、大きな社会テーマとして浮かび上がっています。
一方で観光は、国境を越えた交流を促し、相互理解を深めることで、国家間の緊張を和らげる“平和産業”としての側面も持ち合わせています。外交や安全保障においてハードパワーへの依存度が高まる今こそ、地域レベルの交流が果たす役割はむしろ重要さを増しています。
そのうえで忘れてはならないのが、観光の持続性を支えるのは地域住民の「生活の安全保障」であるという点です。観光を理由に生活道路が混雑したり、住民がバスに乗れなくなったり、静穏な生活が脅かされる状況は長続きしません。観光庁が進める地域交通DXやライドシェアの活用は、こうした生活と観光の両立を図るための実践的な取り組みです。生活圏を守りながら観光需要に対応する交通の仕組みづくりは、地域の受け入れ許容度を高め、観光の持続可能性を支える基盤となります。
結局のところ、観光が“平和産業”として機能するためには、地域住民の暮らしが守られ、安心して観光客を迎えられる環境が不可欠です。生活の質が確保され、住民が観光に誇りと信頼を持てる状態が整って初めて、観光は社会全体にポジティブな価値をもたらします。
観光は、国際交流と地域生活の双方をつなぐ役割を担う産業です。生活の安全保障を基盤に、地域と旅行者が無理なく共存できる仕組みを整えることこそ、持続可能な観光の核心と言えるでしょう。
6.結論:観光を成長戦略の中核に据える
ここまで見てきたように、観光は単なるサービス提供の領域に留まりません。外貨獲得、地域産業の連携、賃上げと人材育成、国際交流と生活の調和……観光は多面的な価値を同時に生み出せる、希少な“統合型産業”です。
MICEやスポーツ、食文化、アート、自然体験、デジタルコンテンツなど、多様な分野と交差しながら、地域に新たな需要と雇用をもたらす。これほど多面的価値を持つ産業は他に多くありません。
それにもかかわらず、政府の「17の戦略分野」に観光が含まれていない現状は、観光を単一のサービス産業として捉えてきた政策の枠組みが、今の実態に追いついていないことを示しています。観光は 食、交通、デジタル、金融、人材、環境、まちづくり など、多様な分野を横断し、地域で価値を創出する“実装フィールド”そのものなのです。
だからこそ今、日本の成長戦略を描くうえで、観光を補完的な分野ではなく、「中核」に据える発想転換が不可欠です。観光によって外貨を獲得し、その成果を地方へ、そして働く人へと循環させる。その仕組みづくりこそが、日本経済の持続的な成長と地域の豊かさの両立させる鍵となるはずです。
