観光分野における「ケースメソッドによる研修」の可能性

観光産業における「人材育成」と一言で言っても、育成方法はいくつもあり、期待される効果もそれぞれに異なる。本稿は、数ある育成方法の中でも、「ケース(事例)」を教材とする方法(ケースメソッド)とその効果について、私自身が観光地域等で実際に行った研修の事例を紹介しながらまとめたものである。

岩崎 比奈子

岩崎 比奈子

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目次

観光産業は典型的な労働集約型産業である。宿泊施設をはじめとして観光施設や飲食施設、交通機関など、多くの場面において従業員の対応の良し悪しが消費者の満足度を大きく左右する。また、新たな商品やサービスを生み出すのも「人」であり、観光事業者の経営や自治体の観光施策の立案を担うのも経営者や中核人材と言われる「人」である。今、優秀な人材の育成は、企業の収益をも左右する、非常に重要なテーマとなっている。

ただ、観光産業における「人材育成」と一言で言っても、育成方法はいくつもあり、期待される効果もそれぞれに異なる。本稿は、数ある育成方法の中でも、「ケース(事例)」を教材とする方法(ケースメソッド)とその効果について、私自身が観光地域等で実際に行った研修の事例を紹介しながらまとめたものである。

多様化する人材育成の方法

一般的に体系的な理論や知識を学ぶためには、わかりやすく整理された講義形式が最も効率的であるが、より現場に即した実践で使える考え方や対応力、応用力を身につけるためには、講義による知識の習得だけでは不十分である。こうした認識から、昨今、ワークショップやフィールドワークを行い、参加者に自らの考えをまとめて発言してもらうといった積極的な参加を求める研修が一層盛んに行われるようになってきた。

また、ある地域の活性化について、現地とは直接利害関係がない人々が、自分の身近な場所で真剣に議論を始めているのも、観光に関わる人材育成についての新しい動きといえるだろう。「丸の内朝大学(東京都千代田区)」では、東京圏の人々が朝の1時間、丸の内にて数回にわたってある地域(11月1日現在開講中の講座は三重県と大分県が舞台)の活性化をテーマに講義とディスカッションを重ね、現地でフィールドワークを行っている。本大学のプロジェクト・デザイナーの古田秘馬氏によると、当初は「利害関係がない」学生(参加者)たちも、この講座への参加によってその地域での出来事が「自分ごと」になり、その地域が「関係地」になるとのことである。

観光分野における「ケースメソッド」への気づき

観光産業における人材は、経営者やリーダー、管理職やコーディネーター、従業員やスタッフなど、組織や地域における立場や果たす役割によって、求められる能力とその育成方法は異なる。そのいずれの人材が対象であっても、より現場に即した実践で使える考え方や対応力、応用力を身につけようとする時、「ケース(事例)」を教材とする方法、つまり「ケースメソッド」には一定の効果があると思われることから、以下で詳しく取り上げたい。

筆者が本格的に人材育成事業に関わり始めたのは2009年頃であるが、当初は、観光業界の専門知識や考え方、事例から学ぶべき視点などを講師から一方的に伝える講義と、フィールドワークとワークショップを盛り込んだ参加型のプログラムとを組み合わせた研修が中心であった。もちろん現在でも、これらは効果のある手法であると考えているが、限られた研修時間でも、参加者自身がより主体的に、自らの立場に置き換えて研修課題を考えられるプログラムができないだろうかと、徐々に感じるようになっていた。

2008年度に担当した調査事業の中で、ある地方都市を舞台に新たな着地型旅行商品の立ち上げからその後までを深くウォッチする機会に恵まれた。この事例は多くの学びのポイントを内包していたことから、これをぜひ教材にしようと、試行的に一つの「ケース」を書いてみた。その際、ハーバード大学ビジネススクールで扱うケースの条件として満たすことが求められている以下の4点(注)を、できるだけ盛り込むようにした。

  1. 実際の出来事が記されていること
  2. ケースを用いることの訓練主題が含まれていること
  3. 訓練に必要な情報が盛り込まれていること
  4. 読み手が登場人物の立場に立って考えられるように書かれていること

ケースメソッドの起源は、ハーバード大学のロースクールで行われていた判例を用いる模擬裁判などの討議形式の授業であり、その後、同大学のビジネススクールでも、実際に起こった経営についての出来事が書かれた教材を用いた討議形式の授業として開発された(注)。その教育目的は、講師と参加者が討議を重ねて、課題解決に向けた思考過程を学ぶものである。

以下で、筆者が実際に行ったケースメソッドによる着地型旅行商品の開発についての研修の概要と効果を紹介するが、本来の意味合いからすると、これを「ケースメソッド」と称して良いか、躊躇はある。しかしながら、今後の目指すところを明らかにする意味で、敢えて「ケースメソッド」の一例として紹介したいと思う。

地域の観光関係者を対象とした「ケースメソッドによる着地型旅行商品開発研修」

地域研修の様子

これまでに地域の観光協会等が主催する研修において実施した「ケースメソッドによる研修」は、いずれも前述した「ある地方都市における新たな着地型旅行商品の立ち上げ」をテーマにしたものである。その進め方は、最初に各人でケースを読解した後、ケースの舞台となった地域の観光面の課題やその解決策としての新商品の概要などについてグループで議論、その結果を全体発表した後、講師よりケースから読み取るべきポイントの解説、最後に着地型旅行商品から観光まちづくりまで含む総括講義を行うというもので、基本的にこの進め方は変わらない。

逆に毎回入念に検討するのは、参加者の顔ぶれや研修目的(求められる研修の着地点)によって、参加者自身が主体的に議論できるテーマやグループ分けである。例えば、同一市内の観光関係者が対象の場合、業種別にグループ分けし、新たな着地型旅行商品を開発するために、それぞれがどのような役割を担うべきかを議論する。また、県全域から参加者が集まる場合は、できるだけエリア別にグループ分けし、地域事情を踏まえて実質的な議論が行えるようにする、といった具合である。

このようにして地域で進めるケースメソッドによる研修には、大きく二つの効果があると考えている。

  1. 参加者同士の議論や講師との個別具体的な質疑応答によって、多様な意見を聞き多くのヒントが得られる。
  2. ケースを読解し議論することで、その課題を自らの立場や地域に置き換えて考える機会となり、研修後のアクションにつながることが期待される。

1.については、参加者が抱える現状や課題はそれぞれに異なっており、学びのポイントは一律ではないため、多様な意見を聞けることが、参加者の研修参加に対する充足感を高めると、過去の参加者アンケートの結果からも明らかになっている。

また2.については、ケースの中に盛り込まれた「学ぶべきポイント」(例:合意形成のプロセス、推進態勢のあり方)について、自らの立場・地域に置き換えて考え、発言することが求められることから、否が応でも、日頃は漠然としている自らの考えをまとめることになる。そして、この研修で何らかの気づきがあった参加者は、研修終了後のアクションにつながることが期待される。実際、ケースで取り上げた地域へ、その後視察に出かけたという人もいた。

実際にケースメソッドによる研修に参加した人からは、「ケースの主人公が自分と同じ立場だったので、とても参考になった」「このようにして地域資源を見つけたらいいのか。自分の地域でもできそうだ」といった感想が聞かれる。このようにケースとは、あまりに先進的な事例ではなく、参加者が本当に学び実践したいと思っている「身の丈の手法」のヒントを教える教材でなくてはならないだろう。そのまま自らに適用できる完璧な事例など、ほとんどないのだから。

大学生を対象とした「ケースメソッドによる着地型旅行商品開発についての授業」

大学での授業の様子

前述の地域における研修と同じケースを使って、ある大学の経済学部に在籍し「地域と観光」を学ぶ学部生を対象に授業を行ったことがある。観光の現場経験を持たない学生が対象であるため、「自らの立場」に置き換えて考えることにはならないが、地域資源発掘の視点や合意形成のプロセスなど、「着眼点や考え方」を学び取る機会とはなった。それは、理論を列挙した教科書ではなく、ある地方都市で繰り広げられた物語(ケース)の中に学びのポイントが含まれているため、そこへ行ったことがない学生でも、容易に議論を始めることができたからといえる(89名の出席者のうち、ケースの舞台となった地方都市へ行ったことがある学生は、わずか5名であった)。

授業の進め方は、地域でのケースメソッドによる研修と同じだが、約90分間の講義時間では議論の時間が短くなる。見ず知らずの学生同士、学年を越えて議論するのはなかなか難しいが、7名程度のグループに分かれて行った議論は非常に盛り上がり、「上級生の意見が参考になった」という感想も講義後のレポートに見られた。

以下は、講義後に提出されたレポートの結果である。日頃、あまり旅行しない学生(出席者全体の56%を占める)でも、こうしたケースを用いた授業では高い教育効果が得られたと言えるだろう。実際、活発な議論の末に最後の全体共有の場では、自ら挙手して発表しようという意欲的なグループもあった。講義後に提出されたレポートの自由回答の中から、学生の感想も紹介する。

[自由回答から]

  • 参加型の授業で内容が頭に入ってきやすかったです。講義形式も良いですが、たまには参加型のも良いとおもいます。
  • 考える講義で満足感も得られました。
  • グループで考えて、他の学生の意見が「なるほど」と思えた、とても充実した授業でした。
  • 実際に現場や現状を知らない状態でも意見や案が考え出せ、それぞれが少しずつ異なっている点に面白みを感じました。
  • 他人の発表、それに対する岩崎さんの意見を聞いて気付かされることが多く、とても勉強になった。
  • 良い点と悪い点をしっかりと指摘していただいたので考えるときにやりがいがあった。

ケースメソッドによる研修の可能性

このように、ケースメソッドによる着地型旅行商品開発の研修を行ってきた経験からみえてきたこの育成方法の良さとは、旅行商品の開発や観光まちづくりを進めるにあたって直面する、様々な課題を解決するために必要な考え方や着眼点を、地域や組織のメンバーが共に議論しながら学べるということである。利害関係が複雑に入り組む地域では、冷静に議論すること自体、難しい場合も多い。そのような場合、一つの成功イメージを共有しながら解決に向けた考え方を共に学ぶということは、非常に有益である。

その一方で、ケースメソッドによる研修には、今後に向けて課題もある。

まず、私自身への課題でもあるが、講師自身にはファシリテーターとして、また次に挙げる「ケース」の分析者として、常にスキルアップが求められるということである。講師は専門知識の習得はもちろんであるが、参加者の発言状況をみながら議論を活性化させたり、一定の軌道修正を行ったり、議論結果に応じたコメントも求められる。また、本来は参加者全体で活発に討議が行われ、そこから思考過程を学ぶというのがケースメソッドの姿とされているが、参加者の中にまだそうした土壌が充分には育っていないのが現状であり、研修の最後に講師から、ある程度総括的な「講義」が必要である。

もう一つの課題は、現在の観光産業が抱える課題に応じた「ケース」の品揃えである。そのためには、ある事例が「ケース」としてどのような部分に学びのポイントがあるのか、その背景は何か、どのような関係者の関わりがあったのかなど、幅広く奥深い取材が必要であり、最終的にはそれらを盛り込んだわかりやすい物語に書き上げることが求められる。

いずれの課題も一朝一夕にはいかないが、研修後に参加者から「ためになった、楽しかった!」という言葉を一つでもたくさん聞けることを目指して、さらに取り組みを進めたいと考えている。

注)高木晴夫監修、竹内伸一著「ケースメソッド教授法入門」(慶応義塾大学出版会、2010年)を参考にした。