「観光SX」〜サステナブルツーリズムのその先へ〜
観光は地域経済を支える大きな力となる一方で、外国人旅行者の急増による混雑や地域摩擦といった課題も深刻化しています。こうした状況の中、サステナブルツーリズムの理念が重視されるようになりましたが、それだけでは十分に地域の未来を支えることは難しくなりつつあります。 本コラムでは、観光を通じて地域・旅行者・社会がともに新たな価値を育み、持続可能な未来を創り出していく新たな視点「観光サステナビリティ・トランスフォーメーション(観光SX)」について考察します。
山下 真輝 フェロー
目次
1.はじめに:なぜ今、「観光SX」なのか?
観光は、地域経済を支える重要な柱として成長してきました。一方で、観光客の集中による混雑や、住民生活への影響といった課題も顕在化しています。特に近年、訪日外国人旅行者の急増により、一部の地域では観光受け入れの限界が議論されるようになりました。
こうした課題への対応策として、自然環境や文化資源を守りながら観光を促進する「サステナブルツーリズム」の考え方が広がり、日本でも観光庁を中心に持続可能な観光推進が進められています。
しかしながら、サステナブルツーリズムは理念の普及にとどまり、実装面では十分な成果を上げていないという声も少なくありません。環境負荷を抑える取り組みは進んでいるものの、観光の構造そのものを変革する動きはまだ限定的であり、「持続可能性」が単なる付加価値として扱われる傾向も見受けられます。
いま、世界的な社会変動が加速する中で、観光には単なる「維持」ではなく、地域の未来を主体的に育てていく視点が求められています。そして、観光を通じて、地域資源を活かし、新たな価値を創造し続ける取り組みが必要となっています。
本コラムでは、こうした背景を踏まえ、観光のあり方を再定義する新たな視点として、「観光サステナビリティ・トランスフォーメーション(観光SX)」を紹介します。観光地と旅行者、地域社会が一体となり、未来に向けて価値を共創していくための、新しい挑戦の枠組みです。
2.サステナブルツーリズムから観光SXへ:新しい観光のかたち
「サステナブルツーリズム(持続可能な観光)」は、観光による自然環境や文化財への負荷を抑えつつ、地域経済や住民生活にも配慮したバランスの取れた観光のあり方を目指すものとして、国際的にも普及してきました。 日本でも観光庁を中心に、持続可能な観光の推進が進められています。しかしながら、こうした理念が現場で十分に実装されているかというと、必ずしもそうとは言えません。環境配慮型施設の整備やサステナブル認証取得といった取り組みは進んでいるものの、観光の構造そのものを変革する動きは限定的であり、「持続可能性」が付加的な要素にとどまっている例も少なくありません。
さらに、いま世界全体が直面している課題の深刻さとスピードは、これまで以上に大きなものとなっています。気候変動、人口減少、社会構造の変化、ライフスタイルの多様化――こうした変化は、観光地の存続や価値形成に直接的な影響を及ぼし始めています。
こうした時代においては、「今ある資源を守る」だけでは十分とは言えません。変化に適応しながら、地域の価値を再構築し続ける力が不可欠です。サステナブルツーリズムの理念は重要ですが、それを単なる「守り」の取り組みに留めるのではなく、社会の変動に先回りして、観光地自身が未来をデザインしていく力が求められています。変化を待つのではなく、自らの手で未来を切り拓く視点が、いま観光に求められているのです。
このような時代の要請に応える新しいアプローチとして、「観光サステナビリティ・トランスフォーメーション(観光SX)」という考え方をご紹介します。
SX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)とは、環境や社会課題を出発点に、持続可能な未来に向けて、価値創造のプロセスそのものを根本から変革していく概念です。近年、企業経営や行政運営の分野でも注目を集めており、観光分野にも応用できる可能性を持っています。
観光SXは、以下の3つの要素を中心に構成されています。

(出所:筆者作成)
この図に示すように、観光SXでは、「観光地の価値向上」「旅行者への価値提案」「地域社会への貢献」という三つの要素を、相互に支え合う関係として位置づけています。それぞれの価値創出が循環しながら、観光地、旅行者、地域社会の三者が共に発展していくことを目指しています。
第一に、観光地の価値向上です。 自然や文化、景観といった地域資源を“守る”だけでなく、“活かし、磨き、伝える”ことで、地域に根ざした魅力を高めていきます。
第二に、旅行者への価値提案です。消費型観光から脱却し、旅行者にとっての学びや感動、地域とのつながりといった「意味のある体験」を重視します。これにより、旅行者の意識や行動にポジティブな変化を促し、地域との新たな関係を築いていきます。
旅行者への価値提案を起点とするポジティブな循環は、次の図に示す通りです。

【画像出所】筆者作成
旅行者に新たな価値を提案することで、旅行者の行動が変わり、それが地域社会への貢献につながります。 地域社会に対するポジティブな影響は、観光地全体の価値向上をもたらし、さらに魅力的な体験提供へとつながっていきます。この好循環のサイクルこそが、観光SXの核となる考え方です。
第三に、地域社会との共創です。観光による経済的利益を地域に還元し、住民の暮らしの質向上に貢献するとともに、観光客と地域住民がともに地域の未来を支えるパートナーとなる関係性を築いていきます。
これら三つの柱を通じて、観光SXは、観光の目的や構造そのものを問い直し、地域資源を育み、未来に向けて新しい価値を創出していくアプローチです。
観光を「消費されるもの」から「育て、未来へつなぐもの」へと転換する――それが、観光SXが切り開こうとしている新たな道筋です。
3.京都市の観光SX的実践から見えてくるもの
観光SXという新しい視点を具体的に考える上で、京都市の取り組みは多くの示唆を与えてくれます。京都市は、自らの施策を「観光SX」と定義しているわけではありませんが、観光を取り巻く課題に真摯に向き合いながら、結果としてSXの方向性に重なる実践を積み重ねてきました。
ひとつは、観光客の時間的分散を図る取り組みです。観光客の行動が日中に集中する傾向に対応し、京都市では朝や夜の時間帯に新たな観光プログラムを用意してきました。たとえば、早朝の静かな寺社拝観や、夜間特別拝観といった取り組みです。これにより、単に混雑を回避するだけでなく、旅行者にとっても特別な体験価値を生み出している点が特徴的です。時間帯をずらすことが、地域と旅行者の新たな関係づくりにつながっています。

【画像出所】京都観光Navi
また、空間的な分散の試みも注目されます。市街地に観光客が集中する状況を受けて、京都市では「京都一周トレイル」のような郊外・山間部への誘導施策を進めてきました。この登山道ネットワークは、都市近郊にありながら自然や地域文化に触れられる場を提供し、中心部に依存しない観光動線を確保しています。単なる分散策にとどまらず、地域固有の資源を新たな観光価値として磨き上げる取り組みである点が、SX的な発想と共鳴しています。

【画像出所】京都観光Navi
地域社会との共生を重視する姿勢も、京都市の取り組みの重要な特徴です。2020年に策定された「京都観光モラル」は、観光事業者、旅行者、地域住民が互いを尊重しながら観光を育てていくための行動指針であり、地域文化や生活環境への配慮、マナーの共有といった価値観の転換を促しています。ここには、観光を地域の一部として育てていくという、主体的な視点が貫かれています。
さらに、宿泊税の活用も見逃せません。京都市では、観光客から得た宿泊税収入を無電柱化や景観保全といった公共的なプロジェクトに投資しています。観光による経済的利益を地域に循環させ、住民生活の質の向上にもつなげるこの仕組みは、観光SXが目指す「共創と還元」の具体的なモデルといえます。
このように、京都市の取り組みは、観光客の流れを変えるだけではありません。観光そのものの質を高め、地域の未来づくりに資するものへと再定義しようとする意志が随所に見られます。
京都市の事例は、観光SXの考え方を単なる理論にとどめず、実践へとつなげていくための貴重なヒントを提供しているのです。
4.京都の取り組みから見えてくる観光SXの本質
京都市の一連の取り組みは、単なる観光課題への対処ではありません。観光のあり方そのものを問い直し、地域の未来づくりとつなげようとする積極的な姿勢が一貫して見られます。
特に、朝観光・夜観光、京都一周トレイルといった時間・空間の分散施策は、単なる混雑回避ではなく、旅行者にとっての体験価値を高める方向に働いています。人が少ない時間帯に地域の本来の魅力に触れること、市街地の喧騒を離れて自然や暮らしに出会うこと。こうした体験の質の向上は、観光が単なる消費行動ではなく、旅行者の人生に深い印象を与える営みへと変わる可能性を示しています。
また、観光モラルの策定や住民との共生を重視する取り組みは、観光が「外からやって来るもの」ではなく、地域が主体的に育てていくべきものであるという意識の転換を促しています。“旅行者も住民も、地域の一員として互いを尊重し、共に地域の未来を支える存在となる。”、この発想の転換は、観光SXの中核をなす「共創」の思想と深く重なっています。
さらに、京都市は、観光による経済的利益を公共の価値に還元する仕組みづくりにも取り組んでいます。宿泊税を活用した無電柱化や景観保全事業は、観光が地域全体の質の向上に資することを目指した好例です。こうした流れを象徴するものとして、京都市が示す「観光客・地域住民・観光事業者それぞれの質(満足度)向上による持続可能な循環モデル」が挙げられます。

【画像出所】京都市観光振興計画2025
京都市は、観光客にとっての満足度、市民にとっての満足度、そして観光事業者・従事者にとっての満足度をそれぞれ高め、この三者が好循環することで持続可能な観光を実現しようとしています。この考え方は、まさに観光SXが目指す「地域主体の観光価値創造プロセス」と本質的に一致しています。
観光SXとは、地域が直面する課題を外からの解決策に頼るのではなく、地域自身の内発的な努力によって未来を切り拓いていくプロセスです。京都市の取り組みは、その重要なヒントを私たちに示してくれています。
5.観光SXへの転換に向けたステップ
観光SXは、単なる理念や目標設定だけでは実現しません。地域社会の中で具体的な変化を生み出すためには、観光に関わるすべての主体――旅行者、民間事業者、地域コミュニティ――が、互いに支え合いながら価値を循環させていく仕組みが不可欠です。
この三者の関係性を象徴的に示したのが、次のサイクル図です。

【画像】筆者作成
旅行者は、地域での楽しみや困りごとの解決を通じて旅の満足度を高め、民間事業者は質の高いサービス提供によって適切な利益を得ます。
一方で、地元コミュニティは、観光の恩恵を受けつつも、自らの安全と生活の質を守ります。この三者の満足度がバランスよく循環することで、観光地全体が持続可能な成長を遂げていきます。これこそが、観光SXが目指す「共創と循環の仕組み」です。
こうした観点から、観光SXへの転換に向けて、地域が取り組むべき課題は多岐にわたります。
まず出発点となるのは、地域資源の再評価です。自然、文化、歴史、暮らしの営みといった地域固有の資源を、単なる観光コンテンツではなく、地域の誇りや未来を象徴する存在として見直す必要があります。そのうえで、経済効果を目的とするのではなく、地域の価値や理念に根ざした観光ビジョンを再構築していくことが求められます。
さらに、地域社会との丁寧な対話も欠かせません。観光が地域住民にどのように受け止められているかを把握し、期待と懸念の両方に耳を傾けることで、観光による影響と社会的許容度のバランスを適切に管理していきます。特に、持続可能な観光を推進するうえでは、「観光の社会的許容度(Social Carrying Capacity)」の考え方を導入し、地域との共生度合いを可視化していく取り組みが重要となります。
観光SXの実効性を高めるには、成果を客観的に把握するための評価指標づくりも必要です。環境への負荷軽減、地域経済への貢献、住民満足度、文化継承への寄与といった多様な視点を持った指標群を整備し、施策の効果を継続的に検証・改善していくサイクルを確立していかなければなりません。
こうしたプロセスを担う人材の育成も不可欠です。単にオペレーションを回すだけでなく、地域の未来を描き、観光を通じて価値を創出する力を持った人材を育てる必要があります。行政職員、観光事業者、DMOスタッフ、そして地域住民自身が、観光SXの理念を共有し、現場で体現していくことが求められるでしょう。
最後に、持続可能な運営基盤の確立も見逃せません。観光による収益を地域に再投資する制度設計や、行政単独ではなく多様な主体が役割を分担して運営に関与する柔軟なガバナンス体制の構築が求められます。宿泊税などの安定した財源を活用しながら、観光を「地域づくりの一環」として位置づけ直す仕組みを整えていく必要があります。
観光SXへの転換は、一朝一夕には成し遂げられません。だからこそ、それぞれの地域が自らのペースで、自らの文脈に沿った形で、地道に変革への歩みを進めていくことが大切です。
6.まとめ
本コラムでは、従来のサステナブルツーリズムを一歩進め、観光を通じて地域社会の価値や未来を育てていく新たな考え方、「観光サステナビリティ・トランスフォーメーション(観光SX)」について考察してきました。
観光SXは、地域資源を守ることにとどまらず、新たな価値を創造し続けることで、地域社会と旅行者がともに未来を育んでいく取り組みです。その実現には、地域自身の主体性と、多様な関係者との連携が欠かせません。京都市の取り組みを振り返ると、課題に向き合いながらも、地域の価値を磨き、旅行者との関係を丁寧に築き、観光から得た利益を公共的価値へと循環させる、着実な歩みが見えてきます。
観光SXとは、外部から与えられるモデルではなく、地域ごとの文脈に根ざして、共に育てていくプロセスにほかなりません。そして何より、観光SXは、地域が主体となり、自らの未来をかたちづくる挑戦でもあります。これからの観光においては、「観光を通じて、どのような地域の未来を描いていきたいのか」という問いが、これまで以上に重要になると考えています。その答えは、一つの正解ではなく、地域ごとに異なるかたちを持つはずです。私たちもまた、観光SXの考え方を通じて、地域のみなさまと一緒に、未来への道筋を描き、育てていきたいと願っています。
このコラムで紹介した観光SXの考え方や事例が、これからの観光を考えるうえで、少しでも多くの方に共感していただき、ともに未来を考えていくきっかけになれば幸いです。