自然と共に成長する~従業員と環境のウェルビーイングを高める企業戦略~

企業経営のキーワードに「ウェルビーイング」が増えている現在、企業は「人としての幸せと組織の成果」の両立、そして「真の生産性」の意味を問われています。 社会への影響を強く意識した事業展開が求められる現代において、企業における優れた取り組みについて考察します。

臼井 香苗

臼井 香苗 主任研究員

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目次

定常型社会における幸せの再定義

職場環境は、わずか30年ほど前にパソコンが普及し始めてから、テクノロジーの進化とともに劇的に変化しました。大量なデータ処理の高速化、クイックレスポンス、移動という隙間なく開催できるオンラン会議…。
生産量を考えるならば、生産性の向上は労働時間の短縮に繋がるはずでしたが、現実はそうではありません。まるで、ランニングマシンの速度だけが上がり続け、かつてと同じ時間、アスリート並みのスピードで走り続けているかのようです。不安や悩み、ストレスのある労働者の割合は8割を超え、睡眠の質は悪いまま。世の中に多くのヘルスケアをサポートする制度や商品、サービスが増えているにもかかわらず、この状況は深刻です。

*(左図)令和4年より調査項目が変更されているため、以前の結果と単純な比較はできない

経済成長を絶対的な前提とせず、持続可能な資源循環と人間的な幸福を目指す「定常型社会」が提唱されて久しいですが、従来の「消費=満足」、「成長=成功」という方程式が通用しなくなっていることは明らかです。物質的な豊かさだけでなく、精神的な充足感、健康、そして社会との繋がりといった非物質的な要素が、幸福感の重要な構成要素となります。
企業においても、従業員のウェルビーイングは単なる福利厚生ではなく、創造性、生産性、エンゲージメントを高めるための不可欠な投資として認識されるようになりました。デジタル化で仕事の生産性が高まった今、「時間」の使い方そのものを見直すことが重要になっています。
その一つの取り組みとして、社員が自然空間で仕事をしながら環境を学び楽しむ「森のプログラム」が注目されています。これは新しい人的資本経営のソリューションのひとつであり、「幸せが成果を生む」という考えに基づき、社員、企業、自然環境の持続可能な健康を目指すものです。これは、まさに「ウェルパ(ウェルビーイングパフォーマンス)」のよい取り組みとして、広がりをみせています。

現在の社会環境の課題

このような取り組みが生まれる背景には、現在、「社員」・「企業」・「環境」、それぞれが抱える課題があります。
まず、社員の状況を見ると、メンタル不調は前述したとおりですが、さらに近年では、「孤独」も社会的な課題となっています。内閣府の調査では、「孤独感」が「ある」と回答した人の割合は、男性では30歳代及び40歳代で、女性では20歳代で高く、「常にある」~「たまにある」までを含めると、約半数の人が孤独を感じているという結果が出ています。「つながり」はウェルビーイングを保つ重要な要素ですが、社会との接点が多いはずの働き世代に孤独を感じている割合が多いことは、懸念すべきことです。

次に企業においては、近年特に、環境・地域社会・従業員へのよりよい取り組みが注視されるようになり、その責任が重くなっています。サスティナブル、SDGsという言葉が広がるにつれ、企業が持続可能性にどのような取り組みをしているのか、投資家が投資を決める際の重要なポイントになっています。また、環境に優しい製品やサービスを選ぶ「エシカル消費」が増えているだけでなく、就職活動においても、企業の倫理性やSDGsやCSR活動に共感できるかを重視する「エシカル就活」という価値観も生まれています。

最後に環境、特に豊かな自然の象徴である日本の森林は、木材利用の低下による伐採減少と森林の荒廃という課題を抱えています。日本の国土の約3分の2は森林ですが、山村地域の人口は全国の約3%に過ぎません。広大な森林は十分に管理されておらず、その恩恵を最大限に享受できているとは言えない状態です。多くの人工林が伐採適齢期を迎えているにもかかわらず、適切な伐採や再植林が行われず放置されています。密集した森林では、木々は十分に成長できず、根の発達も不十分となるため、土壌を保持する力が弱まり、土壌流出のリスクも高まります。同時に、多様な動植物の生息地が失われ、生物多様性が低下します。森林の荒廃は、気候変動、土砂災害、洪水被害、山火事、獣害などを引き起こし、私たちの生活に直接的、間接的な影響を与えているのです。

(木々が密集している森:筆者撮影)

従業員と環境、両方のウェルビーイングへの能動的な取り組みが企業のウェルビーイングにつながる

森林空間を活用した森のプログラムは、まさしくこれらの課題解決に有効な手段のひとつです。この取り組みは、「森林サービス産業」として林野庁が推進しており、従業員の心身の健康促進、自然環境や山村地域が抱える課題の解決、そして企業価値の向上など、多方面の効果が期待されています。森のプログラムで大切なことは、従業員が楽しいと思えるレジャー的な要素と、環境への意識が高まる教育的な要素が含まれていることです。
 現在、林野庁で登録を進めている「森林サービス産業推進地域」は全国で58地域にも上り、(令和7年6月2日時点)、様々な森のアクティビティを提供しています。例えば、科学的な根拠に裏付けられた森林浴、人間と自然とのかかわりや木材利用の意義などについて理解を深める環境教育、コミュニケーションの活性化を生み出す森でのアクティビティ、精神的な安定につながる焚火などです。また、獣害を考えるきっかけとしてのジビエBBQや、山林を走り抜けるマウンテンバイクといったアクティビティなど、その内容は多様です。
これは、企業にとっては、休職や離職の防止、医療費の抑制といった効果を生み出し、長期的にはコスト削減にもつながると期待されます。
さらに、自然という非日常的な環境での体験は、チームビルディングやコミュニケーションの活性化に貢献し、組織全体のパフォーマンス向上を後押しする効果もあります。加えて、自然の中での環境保全に向けた共同作業は、企業の社会的役割を実感させ、企業へのロイヤリティを高めることができます。林野庁では、企業が森のプログラムを活用しやすくなるよう、活用意義や事例を紹介した「企業×森のプログラム~人的資本経営への活用」を公表していますが、 その資料内で紹介されている、国立病院機構東京医療センター落合先生の研究結果によると、森林で過ごすことはストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を減少させることが明らかとなり、社員のストレスの軽減につながることが示唆されています。非日常空間での研修は、深い内省や関係の深化を促し、職場における心理的安全性の向上や離職防止にもつながります。
 山村地域にとっては、企業研修プログラムを通じて新たな経済的な流れを生み出すことができます。森のプログラムを提供する地域のサービス産業事業者による森林整備が進むとともに、企業との共創の機会を育むことが可能となるのです。
そして、こうした取り組みは、森林に限らず、汚染が広がる海、人々の暮らしに密接につながる河川、ヒトと自然が共存する里山など、様々な環境で必要とされるものです。

(森の中でのリラクセーション:筆者撮影)

未来への展望

SDGsやウェルビーイングが積極的に求められるようになり、より本質的で持続可能な幸せを模索する時代が既に始まっています。森のプログラムのような取り組みは、積極的休養となる「回復」や「創造」の場となり、未来へポジティブな自然環境をつないでいくこととなるでしょう。
企業は単なる「成果創出の場」ではなく、従業員一人一人の「人生の質」を支える共同体です。今まさに、未来の「働く」を創造していくべきなのではないでしょうか。