高付加価値旅行者を再定義する ~日本が惹きつけるべき旅行者像の本質~
訪日観光は旅行者数・消費額ともに過去最高を記録しましたが、一方でオーバーツーリズムや地域経済への恩恵の偏りなど課題も出ています。 観光庁やJNTOが掲げる「高付加価値旅行者」の概念が「高額消費者」と混同されている現状も踏まえ、本稿ではその定義を再考し、世界の観光動向や旅行者の価値観の変化を視野に入れ、今後の日本の観光政策のあるべき姿を考察します。
山下 真輝 フェロー
目次
1. 日本を取り巻く観光市場の変化
日本の観光は、質的な変化の転換点を迎えています。これまでの成果に満足するのではなく、地域観光のあり方そのものを再構築すべき時が来ています。
まずは実態をデータで見てみましょう。2024年に訪日した外国人旅行者は約 3,690万人に達し、2019年の3,190万人を大きく上回りました。旅行消費額も過去最高となる 8.1兆円に膨らみ、特に一人あたりの支出は 約22.7万円と高水準を維持しています。これらの動きを通じて、日本のインバウンド市場は「量」だけでなく「質」でも復活していることが明らかです(図1)。
しかし、その回復には偏りも顕著です。観光需要は東京・大阪・京都といった大都市やいわゆる「ゴールデンルート」に集中し、地方との格差はむしろ拡大しています。京都や富士山では観光客の過密化が再燃し、地域住民の生活や環境への影響が深刻化しています。また、観光消費の裾野は広がりつつあるものの、“文化体験や地域との交流”といった分野には十分に及んでいない現状も明らかになっています。宿泊や飲食などには一定の効果がありますが、地域固有の体験型観光への支出は依然限られています。
訪日市場の回復は「数値の回復」を示している一方で、その裏では「地域の本質的な価値」が取り残されている現実が見えてきます。重要なのは、旅行者数や消費額というマクロの成果に満足するのではなく、『誰を惹きつけ、地域にどんな価値を残せるか』という視点から観光のあり方を再定義することです。これが、持続可能で魅力的な観光戦略の出発点となるでしょう。
出典:観光庁「訪日外国人消費動向調査」よりJTB総合研究所作成
2. 日本が重視する富裕層戦略
観光庁がここ数年で特に力を入れているのが、富裕層旅行者の誘致です。これは単なる「お金持ちを呼び込む」取り組みではなく、観光を量から質へと転換するための政策の柱とされています。観光庁は富裕層を「訪日1回あたり100万円以上を消費する旅行者」と定義し、消費規模の大きさを明確な基準としています。
JNTO(日本政府観光局)の富裕旅行市場調査によると、訪日外国人旅行者全体に占める富裕層はわずか1%(約32万人)にすぎません。しかし、その消費額は全体の14%(約6,700億円)に達しており、「少数ながら極めて大きなインパクトを持つ存在」であることが、富裕層を戦略的ターゲットとして重視する理由です。JNTOは富裕層をさらに「クラシック・ラグジュアリー」と「モダン・ラグジュアリー」に分類しています(図2)。クラシックは高級ホテルやブランド消費を重視する従来型の層、モダンは体験や精神的充足を重視する新しい層です。とりわけ後者は「消費規模」よりも「どのような体験に価値を見出すか」を重視する点で、今後の戦略の中核を担う存在と位置づけられています。
こうした整理の背景には、欧米を中心に広がる「量から質」へのシフトがあります。サステナブルツーリズムやレスポンシブルツーリズムの潮流が国際的に浸透し、旅行は単なる消費活動ではなく、社会や環境に責任を伴う行動へと変わりつつあります。「ラグジュアリー・ツーリズムの世界市場」 (出典:株式会社グローバルインフォメーション)によれば、「2024年に257億米ドルと推定されるラグジュアリー・ツーリズムの世界市場は、2030年には574億米ドルに達し、分析期間2024-2030年のCAGRは14.4%で成長する」と予測されています。
また、「ラグジュアリー・ツーリズムは、富裕層の旅行者が従来の旅行とは一線を画した、特別で、パーソナライズされた、没入感のある体験を求める中で進化しています。富裕層の消費者は、プライベートジェットのチャーター、オーダーメイドのウェルネスリトリート、文化に浸る旅行、持続可能なエコツーリズムの目的地を優先させるなど、「豪華さ」よりも「本物の体験」に価値を見出すモダン・ラグジュアリーの価値観が拡大していることがわかります。もっとも、現状の政策は依然として「支出規模だけで測られる旅行者像」を前提にしている側面が否めません。確かに大きな消費額は魅力的ですが、それだけを追い求めては旅行者の実像を捉え損ねる危険があります。観光政策に必要なのは、消費額の大きさではなく、「どのような価値観を持つ旅行者を惹きつけ、地域にどんな持続的な価値を残せるのか」という視点です。

出典:JNTO「訪日旅行市場調査及び富裕旅行市場調査(2022年)」
3. 新たな富裕層の姿「高付加価値旅行者」
JNTOは、「高付加価値旅行者」という新しい旅行者像を提示しています(図3)。従来のラグジュアリーに求められてきた「本物性(authentic)」や「排他性(exclusive)」に加え、「持続可能性(sustainable)」、「地域社会への責任(responsible)」、「環境や文化の再生への貢献(regenerative)」といった観点が強調されています。さらに、「自己変容や学び(transformative)」や「心身の調和(wellness)」といった要素も組み込まれ、旅そのものが個人の成長や精神的充足につながる体験として再定義されています。
この考え方の背景には、欧米諸国を中心に広がる世界的な観光トレンドの変化があります。観光は単なる大量消費の対象ではなく、社会や環境に責任を伴う行動へとシフトしつつあります。サステナブルツーリズムやレスポンシブルツーリズムといった概念は国際的に広く共有されており、JNTOが示す「高付加価値旅行者像」も、国際的に唱えられる responsible traveller の姿そのものといえます。
しかし現場では依然として、「支出規模の大きさ」ばかりが注目される傾向があります。その結果、旅行者の多様な動機や価値観が十分に反映されず、「高付加価値旅行者」という定義は形骸化しかねません。言い換えれば、この枠組みは世界的潮流を踏まえた進化した視点を含んでいるにもかかわらず、それを単なる「高額消費者」と同一視してしまえば、本質を見誤ります。観光政策や地域戦略において本当に問われているのは、この広がりある定義をどう旅行者理解や商品設計に結びつけ、地域に持続可能で意味のある価値を生み出していけるのか――その実践力なのです。

出典:JNTO
4. SBNR層の拡大と新しい旅行価値観
近年、欧米を中心に広がりを見せているのが SBNR(Spiritual But Not Religious)、すなわち「特定の宗教には属さないが、精神的な豊かさを求める人々」です。北米の調査によれば、成人のおよそ5人に1人が自らをSBNRと認識しており、その割合はとくに20〜30代で拡大しています。
SBNR層の特徴は、単に宗教儀礼を避けるのではなく、むしろ 「自分らしい生き方や精神性を大切にする」 点にあります。図に示すように、彼らの価値観にはいくつかの傾向が見られます。
- 非制度的・非消費主義的:宗教組織や資本主義的価値観に縛られず、意味ある消費やサステナブルな生き方を重視する。
- スピリチュアル志向:瞑想やヨガ、自然との一体感を通じて、心の平穏や精神的充足を追求する。
- 本物志向・地域とのつながり:その土地でしか得られない体験や、人とのリアルな交流に価値を見いだす。
- 自己成長・自己探求:旅を「学び」や「変化」の場と捉え、自分自身を深く理解しようとする。
日本でも同様の動きが見られます。宗教色を伴わない形で神社や寺を訪れたり、自然崇拝や精神性に触れたりする旅行者が増えており、彼らにとって旅は「観光」ではなく 自己を見つめ直し、心を整える時間 となっています。こうした価値観は、近年議論される 「モダン・ラグジュアリー層」 の嗜好とも重なります。モダン・ラグジュアリー層は、物理的な豪華さや消費規模ではなく、 「心に残る体験」「人や文化とのつながり」「自分を豊かにする時間」 にこそ価値を置く層です。つまり、SBNR層とモダン・ラグジュアリー層はともに「本質的な豊かさを追求する」点で親和性が高く、日本の観光資源とも自然に結びつきます。例えば、世界遺産・熊野古道を歩きながら歴史や自然、精神性に触れる体験は、SBNR層にとって「心の巡礼」ともいえるものです。また、禅寺での座禅や、日本人の自然観に根ざした神社参拝も、宗教的な制約を超えて「自己探求の旅」として受け入れられています。
このように、日本にはSBNR層やモダンラグジュアリー層の価値観に響く資源が数多く存在しています。観光政策も「高付加価値=高額消費」という従来の枠組みを超え、 精神的充足や自己成長を重視する旅行者層をどう惹きつけるか が今後の大きな課題となるでしょう。

出典:筆者作成
5. 「ラグジュアリー」を問い直す
かつて「ラグジュアリー」といえば、高級ホテルやブランド品、プライベートな快適空間など、富と地位を象徴するものでした。いわば「クラシック・ラグジュアリー」と呼ばれる価値観であり、キーワードは「ステータス」「快適性」「消費としての贅沢」でした。しかし近年、その定義は大きく変化しています。とくに20〜30代では、「豪華さ」ではなく 「意味のある体験」「心の豊かさ」 にこそ贅沢を感じる傾向が強まっています。これは前述のSBNR層やモダン・ラグジュアリー層の特徴とも重なり、消費行動も「モノの所有」から「自己探求」「精神的充足」へとシフトしています。
この価値観の変化を整理すると、ラグジュアリーとは必ずしも高額な商品やサービスを享受することではなく、次のように多様化していることが見えてきます。
- 本物に触れることが贅沢:地域の文化や暮らしを直に体感すること
- 心に残る時間が贅沢:感動や学びを伴う体験
- 自分らしくいられることが贅沢:気兼ねなく過ごせる時間や空間
- 人や文化とのつながりが贅沢:地域の人々との交流や共感
- 未来に配慮することが贅沢:社会や環境にやさしい行動そのものに価値を見いだすこと
例えば、金沢のゲストハウス「ポンギー」はその象徴的な事例です。宿泊料は1泊4,000円ほどと手頃ですが、外国人旅行者から高い評価を得ています。口コミには「実家に帰ってきたような安心感」「日本人の暮らしに触れられる特別な体験」といった声が並び、五つ星ホテルと組み合わせて利用する旅行者も少なくありません。さらに特徴的なのは、オーナーがゲストと政治や社会、宗教観といったテーマについても率直に語り合っている点です。旅行者の日本への関心は観光地や文化財にとどまらず、日本社会や精神性にまで広がっているのです。高級ホテルの一流のホスピタリティも魅力的ですが、すべての旅行者がそれを求めているわけではありません。むしろ、日本人と心を通わせ、社会や文化について自由に語り合う時間にこそ、本当の『贅沢』を感じる旅行者が増えているのです。
「ラグジュアリー」はもはや「価格」や「物理的な豪華さ」だけを意味する言葉ではなくなりました。消費者の価値観の変化を見誤れば、日本の観光政策は「高額消費=高付加価値」に偏り、本当に求められている魅力を見失う危険があります。ラグジュアリーの本質が「心や社会を満たす体験」へと変容していることを踏まえ、その方向に政策や商品設計を舵取りできるかどうかが、日本の観光の未来を左右するのです。

出典:筆者作成
6. 本質探求者(Authentic Seeker)という新しいターゲット
前述の通り、「ラグジュアリー」の意味は大きく変わってきています。では、現代における新たな「ラグジュアリー」とは一体何でしょうか?筆者は、それを体現する旅行者を「本質探究者(Authentic Seeker)」と呼びます。彼らは旅を通じて土地の文化や精神性に触れ、自らを豊かにしようとします。たとえば、中山道や熊野古道を歩きながら自然や歴史に心を重ねる欧米人や、神社や寺を訪ねて日本人の自然観や宗教観に深い関心を示す旅行者がその代表例です。
本質探求者が心を動かされる瞬間には、いくつかの共通点があります。
- 地域の日常に触れる:祭りや四季の移ろい、暮らしに息づく文化を体感する。
- 人とのリアルな交流:市場での会話や宿の主人との語らいが、旅を特別な時間に変える。
- 五感で没入する:地元の食事や温泉、伝統工芸を通じて「暮らしの一部」としての旅を味わう。
- 心に残る物語と出会う:復興の歩みや歴史の物語に触れ、帰国後も心に残り続ける。
こうした旅行者にとってのラグジュアリーとは、豪華な消費ではありません。むしろ「心に響く時間」「文化や人との真のつながり」「自分を見つめ直すきっかけ」にこそ価値を感じます。SNS映えの一瞬よりも、そこで得られる学びや気づきを大切にしているのです。だからこそ、日本が惹きつけるべきは単なる「高付加価値旅行者」ではなく、まさに「本質を探し求める旅行者」なのです。これからの観光戦略は「いくら消費するか」ではなく、「その旅が旅行者の心にどんな意味を残すか」を基準に再構築されるべきです。

出典:筆者作成
7. 観光立国・日本の次なるステージに向けて
インバウンド市場は、訪日客数や旅行消費額といった統計上は顕著な回復をみせています。しかしその一方で、観光客の集中によるオーバーツーリズムや、地域への経済効果や価値還元が不十分といった課題も深刻化しています。こうした状況の中で、観光庁やJNTOが「富裕層誘致」や「高付加価値旅行者」という枠組みを打ち出してきたことは重要な一歩でした。しかし現場における受け止め方は、依然として「高額消費=高付加価値」という短絡的な理解にとどまりがちです。それでは旅行者の多様な価値観を取りこぼし、せっかくの概念整理が実務に活かされないままになってしまいます。
本コラムで提起した「本質探求者」という視点は、そうしたミスマッチを解消するための新しい手がかりとなります。旅行者を「いくら消費してくれるか」で測るのではなく、「その体験が旅行者の心にどんな意味を残すのか」を基準にする。そこにこそ、持続可能な観光地経営のヒントがあります。
今後、日本が取り組むべきは、外国人旅行者数や消費額の拡大といった規模的な施策を追うだけではありません。むしろ「どんな旅行者に来てもらうのか」を見極め、ある程度ターゲットを絞り込んだ誘致戦略を念頭に置くことが重要です。そのうえで、旅行者の価値観に寄り添った情報発信や商品設計を行うことで、日本に来る意味を感じてもらえる旅の形を実現できるのです。いまこそ、日本の観光立国政策は大きな転換点を迎えています。量の回復を超え、「誰を惹きつけ、どんな価値を共創するのか」を軸に据えた戦略へと進化させること。これこそが、日本が持続的に世界から選ばれ続ける観光立国となるための次なるステージなのです。