観光産業の構造的問題と将来展望 -プラザ合意後の急成長がもたらした副作用からの回復とその方向性-

マーケットの変化を、戦後の日本の高度経済成長が完遂したといわれる1970年から始まる高度消費社会化の流れと、1990年代後半から顕在化し、いまだにその出口さえ見いだせないでいる経済低迷期の状況と重ね合わせつつ振り返ることから始め、次に時代の流れの変化が観光関連産業にもたらした影響について考えます。

磯貝 政弘

磯貝 政弘

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目次

20世紀末から今日まで、この10数年間の観光産業を特徴づける事柄を2つ挙げるとすれば次のようになるだろう。

  1. それまで右肩上がりで拡大し続けてきたマーケットが縮小へと向かうと同時に、マーケットニーズの多様化が進捗。
  2. 業界の内部においては、低価格商品を”売り”にする振興勢力(まさしくLow Cost Company=LCCと呼んでみたくなる会社の攻勢)およびインターネットなど新しい流通システムに依拠する異業種参入組の伸張に対して、苦戦を強いられる老舗企業(となれば、航空業界にならってLegacy Companyというべきか)という構図の定着。

ここでいう新興勢力、異業種参入組とは、旅行業界であればHIS、じゃらん、楽天など、宿泊業界では東横イン、ルートインや湯快リゾート、伊東園ホテルグループ、大江戸温泉物語など、航空業界ではスカイマークエアラインズや昨今話題をふりまいている格安航空会社(LCC)である。

さて、本稿ではマーケットの変化を、戦後の日本の高度経済成長が完遂したといわれる1970年から始まる高度消費社会化の流れと、1990年代後半から顕在化し、いまだにその出口さえ見いだせないでいる経済低迷期の状況と重ね合わせつつ振り返ることから始め、次に時代の流れの変化が観光関連産業にもたらした影響について考えることとする。社会学者の大澤真幸氏の分類に従っていえば、驚異的な経済成長を成し遂げた「理想の時代」に続く次の2つの時代区分、「虚構の時代」と「不可能性の時代」を通過するなかで観光産業に起こったこと、それによって業界構造に派生した様々な変化を、”Legacy Company”対”Low Cost Company”の対比を通じて概観するものである。

1.高度消費社会化の進展とプラザ合意で急成長した観光マーケット規模

戦後日本が目標として掲げたのが「経済成長」であったことは、だれの目にも明らかだろう。経済白書で「もはや戦後ではない」という有名な宣言がなされたのは1956年。その前年に一人当たり実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたことをみての言葉だが、1955年から日本の高度経済成長が始まったといわれる。そして、当時の池田隼人内閣が政策の目玉として「所得倍増計画」を掲げたのが1961年。これを契機に、日本経済は一段と成長の勢いを加速させた。日本人の大多数が経済成長という目標と、その先にある「豊かな生活」の実現を目指して邁進した時代である。一億総中流化といわれる時代のはじまりである。
1964年の東京オリンピックが、日本の高度経済成長が着実に実現へと歩んでいることを日本人に知らせる最初のステップであったとすれば、1970年の大阪万博はその完成形を多くの日本人に確信させるものであったが、こうした国際的な大イベントを弾みにして日本の観光産業は発展の速度を上げることになる。

その後、1973年のオイルショックなどによって、日本経済の成長は鈍化する。しかし、いったん動き始めた消費社会化への歩みはとどまることなく、着実に進んでいった。消費者の欲望は、高度経済成長期のように耐久消費財を買い揃えることだけで満ち足りず、デザインや体験、時間などを対象とするある種高度な内容になっていった。「物の豊かさから心の豊かさ」へと、消費者の欲望が向かう先は移っていった。
こうした社会的な欲望の変化は、観光産業にとっても新たなステップへ踏み出すきっかけをもたらした。そして、1985年のプラザ合意。これによって、日本の観光産業は予想外の急成長を経験することになる。

プラザ合意とは、1ドル250円前後の為替レートを背景に急激に輸出を増やしてきた日本の貿易黒字を抑制し、巨大化したアメリカの対日貿易赤字を減らすことを目的とするものであった。これによって円高ドル安が誘導され、1年後には1ドル150円台で円が取引されるようになる。
この円高を生かして、日本は輸入を増やすことが求められるとともに、輸入品の購買力の強化も迫られた。日本政府がここで注目したのが、輸入の目玉としての海外旅行であり、内需拡大の目玉としての国内旅行であった。海外旅行の促進を目的に作成されたのが1986年のテンミリオン計画であり、翌年に制定された総合保養地域整備法(通称「リゾート法」)は国内旅行促進策の柱の一つとしてみることができる。

後者の行く末がどうなったかはここでは言及しないが、テンミリオン計画の方は目標とされた海外旅行者数倍増が1年前倒しで1990年に達成されることとなった。この計画の成功を導いた最大の功労者は20代の女性であったことは、ここで特記しておくべきであろう。こうした若い女性たちが、ホノルルの免税店やパリのブティックで高級ブランドのバッグなどを”買い漁る”様子がメディアを賑わしたのもこの時代である。

出典:法務省「出入国管理統計」

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当時の20代女性を海外旅行や高級ブランド品の購入に走らせた背景には、1986年4月に施行された男女雇用機会均等法や労働時間短縮(1988年に政府は年間総労働時間1800時間程度を目標に定めた)への動きが存在したことも忘れてはならないだろう。
なお、海外旅行や高級ブランド品の購入といった消費活動の隆盛は、20代女性ほどではないにしても、多くの日本人の意識の中に入り込んだことは間違いない。それを立証するデータとして、内閣府の「国民生活に関する世論調査」をここで引用しよう。

「レジャー・余暇生活」に生活の力点を置くという比率が、それまでの長年首位にあった「住生活」を上回って、初めて首位に立ったのは1984年のことであった。その時点では、両者の差は28%対26%と2ポイントに過ぎなかったが、1990年には「レジャー・余暇生活」が37%、「住生活」が23%となり、両者の差は14ポイントと急速に広がっている。
そうした時代の雰囲気のなかで、国内旅行需要も急速に拡大したことはいうまでもない。

2.プラザ合意後の国策として急激な発展を遂げた観光産業

プラザ合意以降の観光マーケットの急成長は、当然ながら観光産業の急成長も実現させることになった。この時代の急成長の経緯を旅行業界の事例から概観したい。
大手旅行業4社といわれたJTB、近畿日本ツーリスト、日本旅行、東急観光の総取扱額は、1986年から1992年まで毎年平均7%増加し、約2兆1千億円から3兆2千億円へと1兆円以上も増加している。とりわけ著しい成長をみせたのが海外旅行であった。約5千億円から1兆1千億円へと、毎年平均13%という驚異的な成長を記録している。
これに対して、国内旅行は毎年平均4%増と海外旅行に比べれば低い成長率にとどまっているが、それでも1986年の約1兆6千億円が92年には約2兆1千億円へと5千億円も増えている。

 

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マーケットは永遠に成長し続ける、当時の業界人(おそらく業界人以外も)の多くがそう感じていたとしても、不思議はないだろう。そうした空気が支配する中で、需要の急拡大への対応を旅行各社が急いだことは言うまでもない。新規店舗の出店、それに応じての社員の採用大量、大量生産、大量販売を効率的に実行するためのコンピュータシステムの構築など、それぞれの企業が競い合ったのは企業規模拡大策であった。
一方、宿泊施設においても、収容能力の拡張と設備の入れ替え、拡充が競って推進された。また、航空会社など輸送機関においても輸送能力向上への動きを止めることはなかった。旅行に関係する業界が、こぞって巨大化していったのがこの時代の最大の特徴といえる。そういっても過言ではない状態が続いた。

観光産業の規模拡大への動きとは別に、旅行業界がこの時代を通じて企画商品化(パッケージ商品化)を推し進めたことも記憶しておくべきであろう。
この時代に大きく増加したのが、「エア&ホテル」、「レール&ホテル」などフリープランの企画商品と宿泊単品を企画商品化した「宿泊プラン」であったことも留意しておきたい。こうした商品が最大の売り物としたのは「宿泊施設の魅力」であり、そのことによって宿泊施設そのものが旅行の目的化する傾向を強めることになった。また、宿泊を”売り”とする企画商品の増加は、宿泊施設のサービス内容、質の標準化を促す傾向を生み出していった。その功罪についてここでは触れないが、この時代に広がった企画商品重視の傾向が、もう一つの副作用を後の時代にもたらすことになったことも、認識しておく必要があるだろう。

3.1997年を境に縮小へ向かったマーケットと業界地図の変化

ここまでみてきたように、プラザ合意を契機に日本の観光産業は劇的な成長を遂げた。しかし、バブル経済が崩壊し、その事後処理が本格化した1997年(山一證券や北海道拓殖銀行など大手金融機関が経営破綻した年である)を境に、企業は人件費などの経費抑制の姿勢を強め、それによって一般的な家計収支は右肩下がりの状態へと転じることとなった。

出典:総務省統計局「家計調査」、内閣府「国民経済計算年報」

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観光産業もこうした変化と無縁であろうはずがなかった。
マーケット規模が縮小へと向かう中で、シェアの奪い合いのための低価格競争が激化の一途をたどるという、非常に厳しい事態を迎えることになった。そうなると、当然のことながら前の時代に巨大な投資を行った企業は、それゆえに苦境を迎えることになる。苦境を乗り越えられず、大手企業の傘下に入る企業や、投資ファンドに売却される企業、廃業する企業が相次ぐことになる。苦境を乗り越えた企業も、様々な苦労を強いられたことは言うまでもない。
その一方、観光産業の急成長期が過ぎてから、1990年代以降に台頭した新興企業や異業種からの参入企業が、業界の勢力図を大きく塗り替えることになった。その傾向は、ここ10年ほどの間に、ますます顕著なものとなっているように思われる。

旅行業界では、90年代になって急成長したHISや異業種参入組の楽天、じゃらん、宿泊業界では東横イン、ルートインや湯快リゾート、伊東園ホテルグループ、大江戸温泉物語などが、それぞれの業界で一大勢力として広く認知されるようになった。また、航空業界でも、JALやANAの苦戦を尻目に、スカイマークエアラインズが就航路線を拡大し続けているほか、格安航空会社(LCC)が日本の航空業界の救世主ででもあるかのように脚光を浴びるようになったのも、ここ10年間ほどのことに過ぎない。

4.観光産業の将来展望

ここまで述べてきたように、1980年代半ばから90年代前半にかけて大きな成長を遂げたLegacy企業にとっては、その過程で身に着けた”重み”を逸早く脱ぎ捨てることと同時に、その時代の成功体験ゆえの”しがらみ”のようなものからの解放も重要な課題であろう。
そうした課題を乗り越えることと同時に、ビジネスモデルの再構築も重要な課題であろう。この課題の解決への筋道として、時代の動きとともに変わるマーケットの志向を的確に捉えることから始める必要があるだろう。それをここで整理すると、次のようになる。

  1. 家計収支の減少にともない、「お金を使うところと節約するところのメリハリ」を鮮明にする傾向が、旅行の分野でも鮮明になったように思われる。格安の宿泊施設や交通機関(夜行高速バスなど)の人気の高まりが、その証左である。
  2. かつてのように宿泊施設の利用が旅行目的となる傾向は弱まり、それぞれの旅行者が設定する旅行目的を達成するための”手段”へと後退する傾向が強くなった。
  3. 旅行目的については、「リフレッシュ」と「異なる文化、風土、生活に触れる楽しさ」が、最近の二大要素であること。これは、「JTBレポート」の元データの一つである「海外旅行実態調査」において、ここ数年来実施している自由記述方式の質問「あなたにとって海外旅行とはなんですか」の分析データから読み取ることが出来る傾向である。

出典:JTM「海外旅行実態調査」

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3番目に挙げた旅行目的の二大要素は海外旅行に限られたものではないだろう。
そして、この旅の二大要素を前提に考えれば、いまの時代に求められる「美食」というテーマが、かつての時代とは異なる内容のものとしてイメージされるであろうことは容易に理解できるのではないだろうか。カニや伊勢海老は、その希少性と美味においていつまでも「美食」の代表であり続けるだろうが、カニや伊勢海老などの希少性のある高級食材だけが「美食」であるという時代は、とうの昔に終わっていると考えるべきだろう。
むしろ、平凡な素材や廉価な材料を使っているとしても、それがその土地の歴史や風土によって長い年月をかけて培われた料理であれば、そこに大きな価値を見出すだけの知見と熟成が身に着いた旅行者も珍しくなくなったのではないだろうか。

そうした旅行者側の変化、経験値の積み上げによって深められた知見の豊かさを理解し、商品内容やサービスの在り方を最初から見直すこと、さらに自社が得意とすべき分野をしっかりと見極め、その道で第一級の評価を得ること、これらを実現するための体制を再構築することが、新興勢力や異業種からの参入組と対等に渡り合い、これからの時代に展望を切り開くために行うべき最低限のことだといえないだろうか。

いずれにしても、観光産業にとってプラザ合意を契機に施されたカンフルを原因とする強烈な副作用からの回復が、最大の緊急課題であることは間違いない。しかし、回復といっても、それは旧に復するということではないだろうということを最後に言い添えておきたい。